中学3年生の時の恩師、山賀先生が4月に亡くなられていたことを奥様からの喪中のお葉書で知りました。
コロナ禍だったので身内だけで葬儀は済ませた事と、その葬儀で私が山賀先生について番組で話している模様を流して下さった事を慌ててかけた電話で知り驚きました。
恩師が移り住んだ奥様のご実家、北海道のせたな町に先生を訪ねて伺ったのは2010年の冬の事でした。
長万部駅から雪の中を延々バスにゆられてついた町はメインの道路の両側に民家が広がる農業や畜産が中心ののどかなところでした。
一方でご多分に漏れず高齢化も進んでいて当時70代だった山賀先生は「俺なんかこのあたりじゃまだ小僧扱いだよぉ」とおっしっていました。
毎朝除雪機が積み上げた家の前の雪の壁と自家用車の雪をどける作業に数時間かかり「80代の先輩も毎朝やってるよぉ」と言う雪国の話を聞きながら奥様手作りのおいしい料理と地元の酒を堪能した楽しい夜でした。
後日、せたな町への旅と恩師の思い出を話した番組を北海道で1242Hzに合わせて聴いて下さった先生から感謝の電話を頂いたお礼に、同録をお送りした事を奥様が覚えていてそれを葬儀で流して下さったという事だったのです。
先生の思い出は様々あるのですがこんな事もありました。
私はサラリーマンだった父親の仕事の関係で生まれてから高校入学まで様々なところを転々としました。
中学などは3回転校を繰り返していますから教科書や勉強の進み具合がそれぞれでかなり苦労した覚えがあります。
神奈川県の小田原から世田谷に転校したのは中学3年でした。
小田原では今は無き神奈川県のアチーブメントテストをかなり頑張って受けました。
ア・テストは毎月定期テストを受けその平均点で進学する高校がだいたい決まるというシステムでしたから毎試験そりゃ必死に取り組んだものです。
ところが東京では「アチーブメント?なんですかそれは。」
「今までの得点の平均?いやぁ関係ありませんねぇ」状態であることを知り「今までの努力はいったいなんだったのかぁ!」と愕然としたことは言うまでもありません。
今考えれば毎月きちんと定期試験を受けてきたことで都立高校の入試にも大変に役に立っていたのですが、当時はただただ釈然としない思いが募るばかりでした。
転校した世田谷区の中学はやんちゃなツッパリ君も多く、今思えばかなり牧歌的だった小田原の中学生にとってそれは衝撃的な事で、そしてそれなりの試練も与えられたものです。
なんとかそのツッパリ君とも友好な関係性を保てるようになり、またクラスにも深夜放送を語り合える友達も出来ました。
しかし何と言っても受験生ですから不安にも襲われ、その挙句に親に「高校に行く意味が分からない!僕は行かない!」などと当時の上柳君は言っていたそうだがこのあたり自分ではよく覚えていないのです。
当然そのような勇気も覚悟もない中学生のたわごとなのだったのですが、この事が山賀先生の耳にも入ったらしく先生はわざわざ夜に家にきて帰宅していた父と酒を酌み交わし、私についてあれこれ話すうちに互いに意気投合したという事があったそうです。
父が亡くなった後「そういえば山賀先生が家にきて親父と酒を飲んでた記憶があるんだけれどあれはなんだったの?」と母に聞いたところ「あなたが高校に行きたくないのなんと言だしたからでしょう!と」あきれた顔で言われました。
思い出話をつまみに山賀先生ともう一度飲みたかったと思いました。先生、転校生だった私を暖かく迎え入れて下さった事を感謝申し上げます。
心よりお悔やみを申し上げます。
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