上柳昌彦 ラジオの人

2015.08.10

神戸大空襲

終戦の年、昭和5年生まれの父は15歳で兵庫県の須磨から上柳の本家がある長野県飯田市に従兄とともに縁故疎開をしていました。飯田中学に通う事になりましたが、労働力不足のため学生が工場等に駆り出される学徒勤労動員で毎日工場で働いていたと言っていました。

私が中学2年の時、父が疎開中に書いていた日記を見せてくれたことがあります。粗末な紙のノートには芋や芋の葉っぱを食べたという事や毎日腹が減って仕方がないという事が繰り返し書かれていました。

慣れない工場勤務の中、唯一の楽しみが食べることだけども満足な食糧がない状況がよくわかりました。

子供のころ私が好き嫌いを言ったり、妹とお菓子の取り合いなどをすると「食べ物のことでガタガタぬかすな!」とよく叱られたのは、こうった体験があったからでしょう。

1945年の2月から8月にかけて繰り返し行われた神戸の空襲について父から話を聞いた記憶がありません。もしかしたら疎開で空襲を免れたのかもしれません。

父が67歳で亡くなる前に最後に読んだ本は、その年に出版された神戸大空襲を描いた妹尾河童さんの小説「少年H」でした。妹尾さんは父と同い年なので、当時の神戸の想い出と重なると思い病床に持って行きましたが、残念ながら内容について多くを聞くことは叶いませんでした。元気なうちにこのあたりのことをもっと聞いておくべきだったと思います。

一方で昭和8年生まれの母は終戦時、神戸市灘区の西灘国民学校6年生で神戸大空襲を体験しています。子どものころ何度かその話を耳にしていましたが、先日改めて母の肩を揉みながら聞いてみました。

母は当時、西灘の一軒家で両親と祖父祖母そして弟と妹と暮らしていました。空襲警報が鳴る前にB29のウォンウォンというエンジン音が聞こえ銀色の機影が見えるとともに焼夷弾がバラバラと降って来ました。

そこで庭に掘った防空壕に避難します。防空壕といっても近所の人たちとスコップで穴を掘り上に板を渡して土をかぶせた程度のもので、中に入るとカンテラの明かりがともっていたことを覚えているそうです。

それが何月の空襲であったか記憶が定かではないそうですが、9歳年下の妹が防空壕の中で茶碗を握りしめていたことを母は覚えています。食事の途中に空襲があったのかもしれません。

6月11日の空襲は朝7時22分から始まったと記録が残っていますから朝食の途中に避難をしたのでしょう。

ちなみに野坂昭如さんもこの日の神戸大空襲を体験し、後に「火垂るの墓」を書いています。

家族が逃げ込んで最後に母の父、つまり私の祖父が防空壕の蓋を閉めようとしたところに、祖父の鉄兜をかすめるように焼夷弾が落ちてきました。しかしこれが幸いにも不発弾でした。

この焼夷弾が炸裂していたら祖父はもちろんのこと粗末な防空壕の中まで火が入り一家は全滅していたことでしょう。

周囲を火に囲まれたため、2キロほど離れた山手に逃げました。向かいの家も燃えていて、知り合いのお姉さんの服の切れ端が見えたことを覚えているそうです。お姉さんは亡くなっていました。

私の曾祖母はなぜか拾った木の枝を一本だけ握りしめて火の中を逃げました。神戸は一面の焼野原になりましたが、奇跡的に住んでいた家は焼け残ります。しかし一家は奈良の吉野山の親戚の寺に縁故疎開をしました。

吉野山国民学校に通う母が夏の天気のいい日に芋の皮をむいていると、昼から大事な放送があるといわれ近所の人たちとラジオの前に集まります。終戦を告げる玉音放送でした。

戦争が終わり疎開先で知り合った友達の親たちが吉野山まで迎えに来ますが、両親とも空襲で亡くなった子どもたちには訪ねてくる人もなく、あの人たちはその後どうしただろうと言っていました。

秋になり母達は吉野山から神戸に戻ります。列車は満員で窓から乗り込んだと言っています。

改めて母に話を聞きましたが、祖父の鼻先をかすめて落ちた焼夷弾が不発弾でなければ、私もこの世に生まれてくることはなかったと改めて思います。その後の人生や生まれてくるはずの命を奪ってしまう戦争。

生きたかった人たちの多くの犠牲の上に、私たちの今があることを痛切に感じると同時に、私はその方々に恥ずかしくない人生を送っているのかとも思います。

戦後70年をどう迎えるべきか様々な議論がなされている今年の夏に母に聞いた戦争体験でした。

数年前に亡くなった叔父は(父の姉の夫)、終戦があと数日遅れていれば特攻機で飛び立っていました。父の七回忌の時に叔父から少しだけその話を聞きました。

当時、神戸の大学に通っていたので学徒出陣で海軍に入ったのかもしれませんが、叔父は当時のことをほとんど語ることはありませんでした。生き残ってしまったことになんらかの思いがあったのかもしれません。

時間をかけて叔父が体験したことを聞こうと思ったのですが、残念ながらなかなかその機会がないまま叔父は逝ってしまいました。

聞いておかなければならないこと。そしてそれを次の世代に伝えることの大切さ。しかしその時間はそんなに多くは残されてはいないと思うこの夏です。