スポーツ伝説

2025.02.28

2025年2月24日~28日の放送内容

【プロ野球 遠井吾郎選手】
 今年で球団創立90周年を迎えた阪神タイガース。遠井選手は1950年代~70年代にかけて、阪神ひと筋で20年間プレーした名物選手です。ぽっちゃり体形にトレードマークのメガネ、そして怒った顔を見たことがないという温厚な人柄から、ついたあだ名が“仏のゴローちゃん”でした。57年にタイガースに入団し、60年代半ばからクリーンアップに座ると、時には4番も務めた遠井選手。64年は主砲としてリーグ優勝に貢献しましたが、優勝を決めた試合でファンがグラウンドになだれ込み、愛用のメガネを割られてしまいます。そのため、南海ホークスとの日本シリーズではボールがよく見えずに精彩を欠き、阪神は日本一を逃してしまったという逸話も。66年には巨人・長嶋茂雄選手と首位打者を争って、打率リーグ2位の3割2分6厘をマークしました。
 その一方で、ぽっちゃり体型から足はお世辞にも速いとは言えず、守備も今ひとつ。それでも20年もプレーして通算1436安打、生涯打率2割7分2厘をマークしたのは、抜群のバッティングセンスのおかげです。ボールを芯でとらえ、左右に打ち分けるバットコントロールは天才的で、その巧みな技術を支えていたのが握力でした。遠井選手は空になったグラスを手の中で握り潰すこともできたとか。その人並み外れた握力が、ここぞという場面での勝負強さを生んでいたのです。

【プロ野球 中西清起投手】
 90年の歴史の中で、特に阪神タイガースファンの記憶に残るシーンといえば、1985年に21年ぶりのリーグ優勝を決めた試合です。中西投手はこのゲームで最後にマウンドに立ち、2イニングをパーフェクトに抑えて胴上げ投手となりました。高知県出身の中西投手は、中学生の時から野球で名を馳せていました。その中西少年を訪ねたのが、『ドカベン』などの野球マンガで有名な水島新司さん。この頃、水島さんは中西球道という少年が主人公の『球道くん』というマンガの連載をスタートさせたばかりだったことから、中西投手は“球道くん”と呼ばれるようになったのです。
 そんな中西投手は、83年のドラフト1位で阪神に入団。2年目の85年には、リーグ最多の63試合に登板。後半戦からは抑えに回り、11勝、19セーブを挙げて最優秀救援投手のタイトルに輝き、リーグ制覇と球団史上初の日本一に大きく貢献しました。入団以来、主にリリーフで活躍してきた中西投手でしたが、89年のシーズン途中に首脳陣から先発転向を言い渡されます。すると翌90年、自身初の開幕投手に抜擢。4月7日に広島市民球場で行われた広島戦で、中西投手は5回まで毎回走者を背負いましたが、その都度持ち味の粘りで切り抜け、161球を投げて9対0で圧勝。阪神では実に20年ぶりの開幕戦完封勝利を飾りました。この年、右ヒジを痛めてオフにトミー・ジョン手術を受けますが、翌年復帰すると92年から4年連続30試合以上に登板。96年に現役を引退するまで13年間で477試合、タイガースのために腕を振り続けました。

  
     
【プロ野球 真弓明信選手】
 阪神タイガースの栄光のシーズンの1つが、球団初の日本一に輝いた1985年です。この年、恐怖の1番バッターと呼ばれ、他球団から恐れられたのが真弓選手です。真弓選手は72年のドラフト3位で西鉄ライオンズに指名され、その後、西鉄から球団経営を引き継いだ太平洋クラブライオンズに入団します。当初はなかなか出番がなかったものの、6年目の78年にショートのレギュラーをつかみ、オールスターゲームにも出場。そんな真弓選手に目をつけたのが、元西鉄ライオンズの主砲で、阪神の打撃コーチ就任が決まっていた中西太さんでした。その目は確かで、阪神移籍1年目の79年にサイクルヒット達成や、ホームラン13本を記録。翌80年にはショートの選手では当時歴代最多となる29本のホームランを放ち、1番打者のイメージを変えました。さらに83年には打率3割5分3厘をマークし、初の首位打者に輝いたのです。
 阪神ではセ・リーグ記録となる38本の先頭打者アーチを放ち、恐怖の1番バッターと恐れられた真弓選手。そのバッティングをいかんなく発揮したのが85年です。ホームランは自己最多の34本、打率もリーグ5位の3割2分2厘。84打点をマーク。クリーンアップ並みの成績を残し、阪神の21年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献します。さらに、西武ライオンズとの日本シリーズでは、打率3割6分、ホームラン2本で優秀選手賞に輝き、球団史上初の日本一に貢献。外野手としても自身3度目のベストナインに選出。ショート、セカンド、外野と異なる3つのポジションで選ばれたのは、万能ぶりを示す記録です。プロ7年目からの移籍にもかかわらず、阪神に17年間も在籍した真弓選手。引退後も2009年から3シーズンに渡り監督としてチームを指揮するなど、阪神タイガース90年の歴史に大きな足跡を残しました。

  
【プロ野球 井川慶投手】
 活躍した期間は決して長くないものの、強烈な存在感を放ったピッチャーがいます。2000年代の前半、阪神タイガースの左のエースとして活躍した井川投手です。井川投手の1軍デビューは、2年目の1999年。この年から指揮官となった野村克也監督に見出されると、01年、4年連続最下位に低迷する阪神で29試合に登板し、9勝13敗と奮闘。リーグ2位の防御率2.67と安定した成績を残します。野村監督はこの年限りで退任しましたが、投手たるものタイトルを目指せという野村さんの教えを胸に刻んだ井川投手は、とにかく長いイニング、多くの試合に投げることにこだわり続けました。その結果、翌02年以降、5シーズン連続で2ケタ勝利をマーク。そのうち4年は、200イニング投球の大台に乗せます。
 中でも活躍が光ったのは03年です。井川投手は29試合に登板。206イニングを投げて20勝5敗。チームを18年ぶりの優勝に導き、セ・リーグMVPに輝きました。阪神で20勝を挙げたのは、79年の小林繁投手以来実に24年ぶりの快挙で、以後セ・リーグで20勝投手は出ていません。またこの年、井川投手は最多勝・最優秀防御率のタイトルと沢村賞も受賞しました。

 

【プロ野球 藪恵壹投手】
 高校・大学時代は全国的に無名ながらも、社会人野球でプレーしていた藪投手は、1993年のドラフトで阪神タイガーズを逆指名して入団。阪神は藪投手を高く評価し、背番号18のエースナンバーを与えました。94年、ルーキーながらローテーションの一角を担い、4月19日のプロ2試合目の広島戦で、プロ初勝利を完投勝ちで飾ります。その後も5月の甲子園初勝利を完投で飾るなど、長いイニングを投げて勝利を重ねた薮投手。ルーキーながら投球回は180イニングを超え、9勝9敗と大健闘してセ・リーグ新人王に選ばれます。阪神のピッチャーが新人王に輝くのは、2リーグ制以降では史上2人目の快挙でした。
 藪投手が在籍していた当時の阪神は、暗黒時代と呼ばれる低迷期でした。プロ1年目の94年から9年目の2002年まですべてBクラスで、最下位に沈んだシーズンが6度。薮投手が好投しても味方の援護に恵まれず、なかなか勝利に繋がりませんでした。プロ3年目の96年から3年連続で2ケタ勝利を挙げた一方で、2年目の95年から6年連続で2ケタ敗戦を記録。95年は防御率2点台、7完投、2完封という申し分のない数字を残しながら、7勝13敗と負け越し。99年は6勝16敗と黒星が10も上回りました。そんな苦労がついに報われたのが、プロ10年目の03年です。この年は星野仙一監督のもと先発・中継ぎとフル回転。8勝3敗の成績を残し、18年ぶりのリーグ制覇に貢献したのです。阪神に在籍した11年間でAクラスはこの年だけでしたが、苦しいチーム状況の中、懸命に腕を振り続けた悲運のエース・藪投手の姿は、今も阪神ファンの記憶に刻まれています。

  
来週のスポーツ伝説もお楽しみに!!

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    パーソナリティ
    • 滝本沙奈
      滝本沙奈
      滝本沙奈

      滝本沙奈

      生年月日:1984年6月6日
      出身地:東京
      学歴:青山学院大学文学部英米文学科卒
      趣味:マリンスポーツ(ダイビング、サーフィン、釣り)
      資格:PADIオープンウォーターダイバー、おさかなマイスターアドバイザー

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