スポーツ伝説

2024.06.07

2024年6月3日~7日の放送内容

【サッカー 細谷真大選手】
 パリ・オリンピックのアジア最終予選を兼ねたU23サッカーアジアカップに挑んだ日本代表の中で、大会前から期待を集めていたフォワードの細谷選手。Jリーグ・柏レイソルのアカデミー出身で、2019年、17歳でトップチームデビューすると、卓越したキープ力とスピードに乗ったドリブルを武器に存在感を高めていきます。22年にはリーグ戦で8得点をマークし、新人賞に当たるベストヤングプレーヤー賞を受賞。7月には国内の若手選手が中心とはいえ、A代表デビューも果たします。翌23年には代表初ゴールも決めるなど、ステップアップを見せた細谷選手。しかし今年は一転、苦難の道が続きます。A代表として出場した1月のアジアカップではノーゴール。2月に開幕したJリーグでもゴールネットを揺らすことはできず、開幕から7試合ノーゴールのまま、今年4月に開幕したU23アジアカップを迎えました。
 この大会で3位までに入ればパリオリンピックの出場権を獲得できる日本。負ければ終わりの準々決勝の相手は、開催国・カタールでした。完全アウェーの中で一進一退の攻防が続きますが、2対2で迎えた延長前半11分、細谷選手が絶妙な動き出しでディフェンスラインをかいくぐると、右足でゴールネットを揺らして日本に勝利を呼び込みます。公式戦での得点は昨年11月以来、実に152日ぶり。まさに復活のゴールでした。これで息を吹き返した細谷選手は、勝てばオリンピック出場が決まる準決勝のイラク戦で、2試合連続ゴールとなる先制点をマーク。日本の8大会連続オリンピック出場に大きく貢献しました。

  
 
【サッカー 小久保玲央ブライアン選手】
 今年4月から5月にかけ、カタールで開催されたU23 サッカーアジアカップ。パリ・オリンピックのアジア最終予選も兼ねたこの大会で再三に渡るビッグセーブを見せて日本を救ったのが、ゴールキーパーの小久保選手です。ナイジェリア人の父と日本人の母を持つ身長190㎝台の大型キーパーで、Jリーグ・柏レイソルのユースチーム出身。レイソルの18歳以下のチームでプレーしていた2018年に、国際大会で最優秀ゴールキーパーに選出されました。その時に準決勝で対戦したポルトガルの名門ベンフィカ相手にPK戦で勝利した活躍が認められ、ベンフィカへ移籍。ヨーロッパで揉まれた小久保選手は、今回の23歳以下のアジアカップでその実力を遺憾なく発揮します。まずは大会初戦の中国戦。日本は先制した後の前半17分にレッドカードによる退場者が出てしまい、1人少ない劣勢に立たされました。そんな中、小久保選手を中心とした安定した守備で中国の攻撃をブロック。ロングシュートやカウンターからの1対1、セットプレーからの危険な場面は、小久保選手が好セーブを連発して1対0の完封勝利。大事な初戦を制すことができたのです。
 小久保選手を中心とした固い守りもあり、日本は苦しみながらも準決勝に進出。勝てばパリオリンピック出場が決まるイラクとの大一番でも、小久保選手がゴールマウスを守り抜き、2対0の完封勝利を収めます。この勝利で日本は8大会連続でのオリンピック出場権を勝ち取りましたが、選手たちには「アジアカップ制覇」というもう1つの目標がありました。決勝戦の相手は、前回大会の準決勝で敗れた因縁の相手・ウズベキスタン。試合は0対0の後半アディショナルタイムに日本が値千金のゴールを決めますが、その直後、日本がペナルティキックを許し、同点の大ピンチを迎えてしまいます。ハンドの判定をされた関根大輝選手は、小久保選手にとって柏レイソル時代の後輩。日本の勝利のため、後輩のためにも絶対止めると誓って、ゴールマウスの前に立ちます。チームメイトからも「お前なら止められる」と檄をもらったという小久保選手。このPKをみごとスーパーセーブし、日本に悲願の優勝をもたらしたのです。

     
 
【サッカー 山田楓喜選手】
 パリオリンピックに挑む世代の中で、“中村俊輔2世”と呼ばれているレフティが山田選手です。2021年にJリーグ・京都サンガFCでプロデビューを果たし、東京ヴェルディに期限付き移籍した今シーズンは、序盤の6試合で3ゴール。そのうち2本が左足で決めた直接フリーキックでした。その自慢の左足で挑んだU23アジアカップ。パリオリンピックのアジア最終予選を兼ねたこの大事な大会で、山田選手はまずパスで結果を出します。初戦の中国戦に右サイドで先発すると、試合開始早々、左足で絶妙なクロスを上げて先制点をアシスト。日本はこのあと退場者が出てディフェンスに回ったため、結果的にこの1点が決勝点になりました。
 決勝トーナメントに進んだ日本は、準々決勝で開催国のカタールと対戦。完全アウェイの厳しいプレッシャーを受けながらも、山田選手の左足が再び炸裂します。試合開始直後にこぼれ球を拾った山田選手は、ペナルティーエリアの外から鋭いミドルシュート。そのボールがゴールネットを揺らし先制点を挙げます。延長戦の死闘となったこの試合で、山田選手のゴールは日本に勢いをもたらす値千金のゴールとなったのです。その後、日本は決勝戦にまで勝ち上がり、アジア王者をかけてウズベキスタンと対戦。試合はお互い一進一退の攻防が続き、0対0のまま終盤戦へ。ベンチスタートだった山田選手は後半残り20分を切ってからピッチに立つと、後半アディショナルタイムにみごとな決勝ゴールを決めました。

 
【大相撲 曙太郎関】
 史上初の外国出身横綱となり、同期入門の若乃花関・貴乃花関と共に数々の名勝負を演じた、元横綱・曙関が今年4月に54歳の若さで亡くなりました。ハワイ・オアフ島で生まれた曙関は、元バスケットボール選手でした。同じハワイ出身で元関脇・高見山の東関親方に才能を見込まれて来日し、1988年3月の春場所で初土俵を踏みます。2mを超す身長に、およそ230kgの巨体を誇った曙関は、長い腕を生かした突きと押しを武器に他の力士たちを圧倒。92年5月の夏場所後、デビューからわずか4年余りで大関に昇進しました。93年の初場所では2場所連続で優勝を果たし、場所後に史上初の外国人横綱が誕生。若貴兄弟よりも早い横綱昇進でした。その年7月の名古屋場所では、伝説の巴戦が繰り広げられます。横綱・曙関、大関・貴ノ花関、関脇・若ノ花関という同期のライバルが一歩も譲らず、13勝2敗で並んで三つ巴の優勝決定戦に持ち込まれました。3人のうち誰かが2連勝するまで続けられる巴戦。最初の一番では、曙関が若ノ花関を強烈な突っ張りで圧倒し、押し倒しで勝利。続く貴ノ花戦は、まわしを引かれる前に一気の寄り倒しで2連勝とし、曙関の4度目の優勝が決まりました。
 幕内では通算で11回の優勝を果たした曙関。初優勝からわずか2年で7度の優勝を達成するという驚異的なペースでしたが、94年に両ヒザを故障して名古屋場所と秋場所を連続で全休。以降、95年から99年までの5年間で優勝はわずか2回と精彩を欠くようになります。それでも2000年7月の名古屋場所では初日から13連勝で、実に19場所ぶりの賜杯を勝ち取った曙関。さらに11月の九州場所では、横綱・武蔵丸関との同郷対決を制して、14勝1敗で11回目の優勝。しかもこの年は7年ぶりに年間6場所皆勤を達成し、すべての場所で11勝以上を挙げて年間最多勝を収めました。
   
  

【スキージャンプ 笠谷幸生選手】
 4月23日、日本人初の冬季オリンピック金メダリストとなった、スキージャンプ界のレジェンド・笠谷さんが80歳で亡くなりました。笠谷選手は明治大学在学中の1964年、オーストリアのインスブルックで行われた冬季オリンピックに初めて出場します。大学卒業後はニッカウヰスキーに入社。70年の世界選手権70m級(現在のノーマルヒル)で2位になるなど、力強い踏み切りと空中や着地で見せる美しい姿勢を武器に活躍しました。ジャンプの本場・ヨーロッパでも、71ー72年シーズンのジャンプ週間で3連勝の快挙を達成。最終戦は当時まだ誰も達成していなかった4戦全勝が懸かっていましたが、笠谷選手は最終戦を欠場して帰国しました。その理由は、72年開催の札幌オリンピックに備えるためです。アジアでは初開催となる冬季オリンピックで、笠谷選手はそれだけメダルへの大きな期待を寄せられていたのです。
 迎えた札幌オリンピック。“日の丸飛行隊”と呼ばれたジャンプ陣の柱だった笠谷選手は、70m級の1回目に84mの最長不倒距離をマークしてトップに立つと、2回目を79mにまとめて完勝。日本人初の冬季オリンピック金メダリストになると同時に、銀メダルの金野昭次選手、銅メダルに輝いた青地清二選手と3人で表彰台を独占する快挙を達成しました。

 

 

来週のスポーツ伝説は……

6/10(月) プロ野球 中川颯投手
6/11(火) プロ野球 長谷川威展投手  
6/12(水)プロ野球 武内夏暉投手
6/13(木) プロ野球 西舘勇陽投手
6/14(金)プロ野球 萩尾匡也選手

お楽しみに!!

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    パーソナリティ
    • 滝本沙奈
      滝本沙奈
      滝本沙奈

      滝本沙奈

      生年月日:1984年6月6日
      出身地:東京
      学歴:青山学院大学文学部英米文学科卒
      趣味:マリンスポーツ(ダイビング、サーフィン、釣り)
      資格:PADIオープンウォーターダイバー、おさかなマイスターアドバイザー

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