スポーツ伝説

2024.05.10

2024年5月6日~10日の放送内容

【マラソン 前田穂南選手】
 2021年に開催された東京オリンピックに続き、今年のパリオリンピックでも女子マラソンの日本代表入りを果たした前田選手。高校時代は補欠止まりで、一度も全国の舞台に立ったことありませんでした。それでもマラソンでオリンピックに出たいと、卒業後は練習がひときわ厳しく、マラソンで実績のある天満屋陸上部に入部。すると5年目の19年、マラソングランドチャンピオンシップで優勝し、東京オリンピック代表入りを果たします。20年には30キロの距離で、女子長距離のレジェンド・野口みずきさんが持つ日本記録を更新するなど、ますます注目を浴びます。ところが、東京オリンピック本番2ヵ月前に足首を故障。なんとか出場には漕ぎつけたものの、33位と満足のいく結果は残せませんでした。
 日本記録更新とパリオリンピック出場のため、前田選手は薄底から厚底シューズへの変更と、その靴に適したフォーム改造に取り組みます。さらに、マラソン日本記録保持者・野口みずきさんの現役時代の練習メニューを参考に、月間1300キロ以上を走り込んで実力を磨いていきました。その成果を発揮したのが、今年1月の大阪国際女子マラソンです。中間地点を過ぎたところから積極的に仕掛け、ペースメーカーやアフリカ勢より前に出てレースを引っ張ると、日本人1位でフィニッシュ。自己ベストを3分半近く縮め、野口さんの記録を19年ぶりに13秒更新する2時間18分59秒の日本新記録を打ち立てました。こうしてパリオリンピック代表の座も勝ち取った前田選手。大阪国際はレース後半に雨が降り、向かい風が吹くなど悪条件が重なりましたが、コンディションさえ整えばまだまだ記録は出せると自信をのぞかせています。

  
 
【フェンシング 吉田健人選手】
 普段は警視庁に所属、日本屈指の実力を誇る男子フェンシング・サーブルの吉田選手。父親はバレーボールVリーグで監督経験を持つ吉田清司さんで、コーチや分析担当として1988年のソウル、2008年の北京オリンピックに参加した経験を持ちます。その父親からオリンピックは最高の舞台だと、幼少期から聞いて育った吉田選手。世界と戦うために選んだ競技がフェンシングでした。高校生から競技を始め、大学で“胴体を狙う”フルーレから、“上半身全部を狙う”サーブルに種目変更。これをきっかけに実力を伸ばしていき、日本代表入りを果たします。そんな吉田選手の名が一躍世界に轟いたのが、19年の世界選手権です。この大会で吉田選手は、ロンドン、リオと2大会連続オリンピック制覇を果たした世界屈指の実力者アーロン・シラギ選手を破る大金星をあげたのです。その後も国際大会で結果を残し、東京オリンピックの代表入りを果たした吉田選手。しかし本番では個人戦、団体戦ともに初戦で敗退となり、実力を出し切ることができませんでした。
 東京オリンピックの敗退からおよそ3ヵ月後。吉田選手は再チャレンジの舞台として全日本選手権に出場し、初の日本一の称号を手にします。これで勢いに乗った吉田選手は、直後にフランスで行われたフェンシングのグランプリ大会で銅メダルを獲得。男子サーブルの世界大会でメダルを獲得したのは、日本フェンシング史上初の快挙でした。その後も安定した成績を残し続けた吉田選手。昨年の全日本選手権では、前年度敗れた因縁の相手、ストリーツ海飛選手と再び決勝で対戦。2年ぶりの日本一を達成してパリオリンピックの内定も勝ち取り、名実ともに日本フェンシングの第一人者となりました。

     
 
【サーフィン コナー・オレアリー選手】
 東京オリンピックから正式競技に採用されたサーフィン。東京大会では五十嵐カノア選手が銀メダルを獲得して話題になりました。その五十嵐選手と若手時代から切磋琢磨してきたのが、オーストラリア出身のオレアリー選手です。1993年シドニー生まれで、日本人の元プロサーファー柄沢明美さんを母に持ち、身長およそ190㎝の恵まれた体格を生かした力強いサーフィンが特徴です。17年、23歳の時から世界最高峰の舞台、ワールドサーフリーグ・チャンピオンシップツアーに参戦。その年のルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝き、世界のトップサーファーの仲間入りを果たします。しかし19年にはチャンピオンシップツアーから転落。下部ツアーでなんとか結果を残し、翌年のチャンピオンシップツアー復活を決めたものの、コロナ禍でツアー自体が中止に。ブランクもあったためか21年は思うような結果を出せず、一時は引退も考えていたといいます。そんな悩めるオレアリー選手に新たな希望を与えてくれたのが、母の祖国で開催された東京オリンピックだったのです。
 プロサーファーであるオレアリー選手にとって、一番大事なのはワールドツアーの成績です。以前はオリンピックに対して、普段のツアーよりも大切なものなのか懐疑的に見ていたといいます。ところが、東京オリンピックでライバルの五十嵐カノア選手が銀メダル。家が近所で仲が良かったオーストラリア代表オーウェン・ライト選手が銅メダルを獲得。仲間の活躍とオリンピックの盛り上がりに刺激を受け、自分もオリンピックに出たいと真剣に考えるようになりました。それまではオーストラリアを拠点にしていたオレアリー選手でしたが、日本代表として戦うため国際サーフィン連盟に申請して、昨年8月、移籍変更が承認。今年開催されたサーフィンの世界選手権にあたるワールドゲームズで日本代表デビューを果たすと、大会終了後にパリオリンピック代表に内定しました。以前は好不調の波もあったオレアリー選手ですが、ここ2シーズンのツアーランキングは9位、11位と安定。まさに脂が乗り切った状態でパリ本番を迎えます。

  
【大相撲 尊富士弥輝也関】
 横綱・照ノ富士関が途中休場となった3月の大相撲春場所で主役になったのが、この場所で新入幕を果たしたばかりの尊富士関です。日本大学を卒業後、伊勢ヶ濱部屋入門しますが、学生時代に大きな個人タイトルが獲れなかったため、一昨年の9月に前相撲からスタート。序ノ口・序二段・三段目・十両はそれぞれひと場所で通過しましたが、幕下通過には4場所を要し、初土俵から所要9場所で新入幕を果たしました。すると土つかずの10連勝を遂げ、11日目の相手は、本来なら新入幕の力士は取り組みが組まれない新大関の琴ノ若関。尊富士関は立ち合いで低く当たると、琴ノ若関の胸に飛び込んで一気に寄り切り。初対戦の大関を吹き飛ばし、新入幕の場所で初日から11連勝という、1960年の大鵬関と並ぶ歴代トップタイの偉業を達成したのです。12日目は大関・豊昇龍関に敗れ記録更新はなりませんでしたが、ひと場所15日制が定着して以降、昭和を代表する大横綱・大鵬関とアッサリ肩を並べてしまいました。
 13日目を終えた時点で、尊富士関は12勝1敗。2敗の力士はおらず、14日目の朝乃山関に勝てば、大正時代の1914年、両国関以来実に110年ぶりとなる新入幕優勝という状況になりました。しかし朝乃山関との取り組みで、尊富士関は敗れて2敗となった上、右足首のじん帯を負傷。千秋楽の土俵に上がれるかどうかも微妙になりましたが、兄弟子の横綱・照ノ富士関が、尊富士関にこうアドバイスしました。「記録はいいから、お前は記憶に残せ。勝ち負けじゃない。最後まで出ることがいいんだ。負けてもしようがない。でも、このチャンスはもう戻ってこないぞ」本来なら相撲が取れない状態のはずでしたが、横綱の一言で強行出場を決意。千秋楽で豪ノ山関を押し倒しで破って、尊富士関は110年ぶりの大偉業を達成したのです。

 

【大相撲 湘南乃海桃太郎関】
 神奈川県大磯町出身の湘南乃海関。15歳の時、すでに身長192㎝という大柄な体格でした。相撲経験はありませんでしたが、小学3年生から始めた野球で鍛えた体で素質を見込まれ、14もの相撲部屋から熱心な勧誘を受けます。中学卒業後、部屋の雰囲気の良さと稽古の厳しさ、更に元関脇・安芸乃島の高田川親方の「今は日本人力士が活躍していないから、君がヒーローになれ」という言葉で高田川部屋入門を決めました。2014年3月の春場所で初土俵を踏んだ湘南乃海関は、所要4場所で三段目まで駆け上がります。しかしその後は1年あまり足踏みが続き、序二段と往復する状態が続きました。その間に、四股やすり足といった相撲の基本や食生活から見直し。すると稽古で兄弟子たちに勝てるようになり、昨年1月の初場所でついに十両へ昇進します。その十両をわずか3場所で通過し、昨年7月の名古屋場所で新入幕を果たしました。
 昨年7月の名古屋場所。湘南乃海関は14日目までに9勝を挙げ、千秋楽の相手はベテランの妙義龍関でした。湘南乃海関は立ち合い、思い切って当たってからの引き技が決まり10勝に到達。新入幕でみごと敢闘賞を受賞しました。今年1月の初場所は9連敗を喫するなど4勝11敗に終わりましたが、3月の春場所では大関経験者の御嶽海関と正代関らを破って9勝6敗。4場所ぶりの勝ち越しを決め、幕内の座を維持したのです。師匠からの言葉「君がヒーローになれ」を胸に、叩き上げで這い上がって来た湘南乃海関は頂点を目指します。

来週のスポーツ伝説もお楽しみに!!

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    パーソナリティ
    • 滝本沙奈
      滝本沙奈
      滝本沙奈

      滝本沙奈

      生年月日:1984年6月6日
      出身地:東京
      学歴:青山学院大学文学部英米文学科卒
      趣味:マリンスポーツ(ダイビング、サーフィン、釣り)
      資格:PADIオープンウォーターダイバー、おさかなマイスターアドバイザー

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