スポーツ伝説

2023.08.18

2023年8月14日~18日の放送内容

【プロ野球 北別府学投手】
 球団初の快挙であり、20世紀最後の200勝投手となった、広島カープの元エース・北別府さんが6月16日、65歳で亡くなりました。鹿児島県出身の北別府投手は、宮崎県立都城農業高校3年生春の九州大会で完全試合を達成し一躍注目されます。1975年のドラフト1位で広島カープに入団。先輩たちの剛速球を見て自分はコントロールで勝負と決意すると、キャンプでストライクゾーンに糸を張り、そこに触れないように投げ込みを続けました。その結果、キャッチャーが構えたところに正確に投げる制球力が身に付き、ミリ単位でコントロールする”精密機械”と呼ばれました。
 この制球力を武器として3年目の78年に10勝を挙げ、頭角を現した北別府投手。79年は17勝を挙げ、リーグ優勝と日本一を味わいました。78年から88年までは11年連続で2ケタ勝利を記録。プロ7年目の82年には初めて開幕投手の大役を任され、完封勝利で弾みをつけると、シーズン20勝を挙げて初の最多勝のタイトルを獲得。この年から3年連続で開幕戦完投勝利を飾った北別府投手は、開幕投手を通算9度も務め、セ・リーグ最多の6勝を挙げています。通算213勝を挙げた北別府投手ですが、実は、セ・リーグで最もホームランを打たれた投手という不名誉な記録も残しています。それでも通算勝率は6割を超え、負けないエースだった北別府投手。その勇姿は、今もカープファンの心に鮮明に刻まれています。

 

【プロ野球 杉下茂投手】
 中日ドラゴンズのエースとして活躍した杉下茂さんが6月12日、間質性肺炎のため97歳で亡くなりました。杉下投手は太平洋戦争終戦後に明治大学を経て、1949年に中日に入団。プロ2年目の50年から6年連続で20勝を記録。中日が初のリーグ優勝を果たした54年は32勝、防御率1.39で、最多勝と防御率のタイトルを獲得し、セ・リーグMVPに輝きます。59年から2年間、選手兼任で監督も務めましたが、この間は監督業に専念して登板はせず。61年、投手コーチとして移った毎日大毎オリオンズで現役復帰しますが、この年限りで引退。通算215勝を挙げました。杉下投手の代名詞がフォークボールです。日本で最初にフォークを本格的に投げたとされる杉下投手は、フォークボールの神様と呼ばれます。とはいえ、杉下投手が1試合でフォークを投げたのは、多くて5球程度。あくまで最後の切り札として用いて、絶対に抑えないといけない場面でしか投げませんでした。
 そんな杉下投手が唯一プライドを捨ててフォークを連投した試合が54年、西鉄ライオンズとの日本シリーズ第7戦です。杉下投手は第1戦で完投勝利、第2戦でリリーフ登板、第4戦・5戦で連続完投とフル回転で投げ、疲労困憊の状態でしたが、3勝3敗で絶対に負けられない試合だったため、やむをえずフォークを連投。1対0で完封勝利を挙げ、球団初の日本一を達成しました。杉下投手がつけていた背番号20はその後、権藤博投手、星野仙一投手、小松辰雄投手ら後輩たちに受け継がれ、ドラゴンズのエースナンバーになっています。

      
【テニス  加藤未唯選手】
 加藤選手は2017年の全豪オープン・女子ダブルスでベスト4に入るなど、以前からダブルスで活躍。今年の全仏オープンでも、女子ダブルスと混合ダブルスでそれぞれ注目の的となりました。まず話題を集めたのは、女子ダブルス3回戦での出来事。プレー途中に落ちていたボールを外へ出そうとしたところ、ボールガールの頭部に直撃してしまい、これが危険な行為とされて失格処分に。賞金とポイントも没収されてしまったのです。加藤選手はワザとではないと処分撤回を求めると、プロテニス選手協会も不当で不公平な処分と声明を発表。世界中から擁護する声が集まるなど、一躍時の人となります。そんななかで始まったのが、男子選手と組む混合ダブルス。コートの内外で大きな注目を集めるプレッシャーの中、加藤選手のペアは準決勝でストレート勝ちを収め、決勝進出を果たします。
 初のグランドスラム制覇へ向け、決勝のコートに立った加藤選手。精神的なストレスも極限状態にあった彼女を支えてくれた2人の人物がいました。ひとりは、混合ダブルスでペアを組んだドイツのティム・プッツ選手です。大会直前に急遽ペア結成が決まった関係性でしたが、プッツ選手は献身的に加藤選手を支えました。そしてもう一人は、女子ダブルスでペアを組み、ともに失格となったインドネシアのスーチャディ選手。彼女はその非を責めることなく、むしろ混合ダブルスの準決勝で自身を破り勝ち上がった加藤選手へ、決勝も頑張ってとエールを送ったのです。こうした周囲からのサポートと声援を力に変え、ついに迎えた混合ダブルス決勝戦の最終セット、加藤選手のペアはタイブレークの熱戦の末、見事に勝利。全仏の混合ダブルスで日本人が優勝するのは史上3人目の快挙でした。

 

【サーフィン 松田詩野選手】
 今月21歳になったばかりの松田詩野選手がサーフィンを始めたのは6歳の頃。すぐに頭角を現わし、13歳で日本プロサーフィン連盟のプロテストに合格します。時を同じくして、サーフィンが東京オリンピックの正式競技に決定。松田選手は東京大会の代表候補として期待を集めました。2019年5月、16歳で出場した第1回ジャパンオープンで初代女王に輝くと、この年の国際大会・ワールドゲームスでアジア選手の最上位に入ったこともあり、益々注目されます。ところがエルサルバドルで開催された最後の選考大会で、プレッシャーによる焦りからか波に乗れず早々と敗退。大本命から一転、オリンピック出場を逃してしまったのです。この挫折が松田選手をさらに成長させるきっかけになりました。時間をかけて体を作り直したことで体力、筋力ともに確実に進化。精神的にも強くなり、より集中力を高めて競技に臨めるようになりました。
 松田選手には、サーフィンをする上で、常に大事にしていることがあります。それは、「自分の波は必ず来る」という考え方です。自然相手のサーフィンでは、自分の出番のときにいい波がくるとは限りません。それでも自分の波は必ず来ると信じて、自信をもって戦うようにしています。その自分の波を引き寄せたのは、今年6月に開催されたワールドゲームス。舞台は2年前に代表落選を味わった因縁の地・エルサルバドルでした。松田選手は日本のライバルたちが次々と姿を消す中、しっかりと波をつかんでアジア最上位まで勝ち上がることに成功。パリオリンピックの日本人選手内定第1号となったのです。パリ大会のサーフィン会場は、世界最難関とされるポイント、フランス領ポリネシアのタヒチ。松田選手は現地でトレーニングを開始するなど、その目はもうオリンピック本番を見据えています。

 

【柔道 新添左季選手】
 オリンピック・柔道の女子70キロ級は、リオ大会では田知本遥選手、東京大会では新井千鶴選手と、2大会連続で日本選手が金メダルを獲得してきた階級です。その新井選手が引退し、後継者候補として白羽の矢を立てられたのが新添選手でした。新添選手は高校時代まで大きな実績はゼロ。それでも女子代表の増地克之監督が根気強く成長を待ち続けた逸材です。才能を見込まれたきっかけは、増地監督が就任直後の2016年の年末、のちにオリンピック女王になる新井選手を、大学2年生の新添選手が破ったからです。新添選手は世界選手権の団体戦メンバーや海外遠征メンバーに抜擢されるなど期待を集めますが、なかなか結果を出せないまま月日は過ぎていきました。意識が変わり始めたのは、東京オリンピックで新井選手が金メダルに輝いたこと。これに刺激を受けると、昨年はじめて世界選手権の個人戦代表メンバーに選出され、3位で表彰台も経験したのです。
 171㎝の長身と長い手足から繰り出す立ち技、そして内股が武器の新添選手。以前は引っ込み思案の性格から取材での受け答えも消極的でしたが、少しずつオリンピックや世界一という言葉を自ら口にするようになりました。その成果が発揮されたのは、昨年12月に開催されたグランドスラム東京。日本勢が次々と序盤で敗れる中、オール一本勝ちで優勝を収めます。さらに今年の世界選手権は、準決勝で大会2連覇中の女王を破り、決勝戦では得意の内股から抑え込み一本で初優勝。無欲で控えめな性格の大器がついに世界女王に輝き、パリオリンピックの代表にも内定しました。

  
来週のスポーツ伝説は……
8/21(月) バスケットボール 馬場雄大選手
8/22(火) バスケットボール 比江島慎選手
8/23(水) バスケットボール 富永啓生選手
8/24(木) 車いすテニス  小田凱人選手
8/25(金) 車いすラグビー 日本代表
              お楽しみに!!

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    • 滝本沙奈
      滝本沙奈
      滝本沙奈

      滝本沙奈

      生年月日:1984年6月6日
      出身地:東京
      学歴:青山学院大学文学部英米文学科卒
      趣味:マリンスポーツ(ダイビング、サーフィン、釣り)
      資格:PADIオープンウォーターダイバー、おさかなマイスターアドバイザー

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