【サッカー ジーコ選手】
Jリーグがスタートした1993年、参加クラブ数は10チームでした。この10チームは日本サッカーリーグに加盟していたクラブから選ばれましたが、鹿島アントラーズは日本サッカーリーグの2部からギリギリ滑り込んだチームで、他のクラブほど実績はありません。そこでチームの強化にオファーしたのが、元ブラジル代表のジーコ選手でした。開幕を1ヶ月後に控えた4月、チーム作りの最終段階としてイタリアに遠征したアントラーズは、クロアチア代表との練習試合で1対8と大惨敗します。不甲斐ないチームメイトにジーコ選手はこんな言葉を投げかけました。「どんなに相手が強くても、どんなに苦しい状況に置かれても、最後まで全力を尽くさなければいけない。それがプロとしてのあるべき姿だ」
これで目が覚めたのか、惨敗から10日後、イタリアの名門・インテルとの練習試合では、終始闘志あふれるプレーを見せて1対1の引き分け。戦うチームとなってJリーグ開幕を迎えたのです。
93年5月16日。名古屋グランパスエイトを迎えて行われたアントラーズのJリーグ開幕戦。背番号10をつけて先発出場したジーコ選手は、今度はプレーでチームメイトとサッカーファンを奮い立たせます。まずは前半25分、強烈なミドルシュートで先制ゴールを奪うと、そのわずか5分後、今度は直接フリーキックを華麗に決めて2点目。後半18分には、ブラジルから呼び寄せたアルシンド選手との連係から3点目のゴール。これがJリーグ第一号のハットトリックであり、40歳2ヶ月での達成は、いまも残る最年長記録です。ジーコ選手の活躍で5対0で開幕戦に快勝したアントラーズは、ツーステージ制だったJリーグのファーストステージ王者に輝きました。
【サッカー 風間八宏選手】
1993年5月15日、ヴェルディ川崎 対 横浜マリノス戦で開幕したJリーグ。その記念すべき最初のゴールを決めたのはヴェルディのマイヤー選手で、この試合で生まれた3得点は、いずれも外国人選手が決めたものでした。そんな中、最初にゴールを決めた日本人選手が、サンフレッチェ広島で初代キャプテンを務めた風間選手です。風間選手は17歳の時、20歳以下のワールドユース選手権に飛び級で出場。この記録は、久保建英選手に破られるまで日本人最年少出場記録でした。その後も大学1年生でA代表に選ばれるなど、順調に飛躍した風間選手は、当時は当たり前だった大学から実業団チームへの入団という進路を選ばず、単身西ドイツへ。日本人にはまだ夢物語だったプロサッカー選手の座をつかみ取ったのです。
西ドイツで5年間プレーしたのち、89年、27歳の時に帰国した風間選手は、サンフレッチェ広島の前身、マツダに入団。ときに厳しい言葉で、本当のプロフェッショナルとは何か、ドイツで培った経験をチームに注入していきます。もちろん言葉だけでなく、ドイツ仕込みの高い技術でチームの中心として活躍。Jリーグ元年に日本人選手で直接フリーキックからゴールを決めたのは4人だけで、その1人が風間選手なのです。こうして成長を遂げたサンフレッチェは、Jリーグ元年こそ優勝に届きませんでしたが、2年目の94年、ファーストステージで悲願の初優勝を果たしました。
【サッカー モネール選手】
Jリーグ誕生に名を連ねたオリジナル10のひとつ、横浜フリューゲルス。1998年度の天皇杯優勝を最後に、横浜マリノスと合併する形でその歴史に幕を降ろしました。個性的な選手が多かったフリューゲルス。そのひとりが、左サイドバックからのオーバーラップやパワフルなドリブルなどで攻撃的なプレーを持ち味としたモネール選手です。もともとはフリューゲルスの前身・全日空で3年間プレーしていましたが、その後スペインに移籍。Jリーグの開幕に合わせて、フリューゲルスの切り札として日本に戻ってきました。記念すべき93年のJリーグ開幕戦。清水エスパルスとの試合でも、モネール選手の攻撃的なプレーが光りました。1対1で迎えた後半12分、ペナルティーエリアから大きく飛び出した相手ゴールキーパーが前線へパスを出そうとしたところを、モネール選手が見事にカット。約20m離れた無人のゴールへ流し込み、貴重な勝ち越しゴールを挙げました。Jリーグの歴史で、ディフェンダー登録の選手が決めた初ゴールです。
モネール選手といえば、ゴールを決めたあと、他の選手とお尻をぶつけ合って喜びを表現する、通称・モネールダンスです。今でこそゴールを決めたあとパフォーマンスを見せる選手は大勢いますが、モネールダンスは三浦知良選手のカズダンスとともにその先駆けでした。最近でも、当時を知らない若手選手が真似をするなど、時代を超えたゴールパフォーマンスになっています。試合中は、相手選手に闘志むき出しのプレーで自陣を守るモネール選手。しかし、終われば必ず相手と握手して引き上げるフェアプレー精神も好感を呼びます。攻守両面、そしてパフォーマンスでもリーグの顔として活躍したモネール選手はこの年、Jリーグのオールスターゲームにも出場。スポーツ専門誌が選ぶ93年のベストイレブンにも名を連ねるなど、始まったばかりのJリーグを大いに盛り上げました。
【サッカー 澤登正朗選手】
Jリーグが始まった1993年から、清水エスパルス一筋で活躍した澤登選手。静岡県富士宮市出身で、東海大学第一高校の2年生の時に全国高校サッカー選手権で優勝。3年生の時にも準優勝と高校時代から注目を集め、東海大学に進学後も何度も全国制覇を経験します。また92年のバルセロナオリンピック予選では、日本代表のキャプテンとして背番号10を背負ってプレーしました。大学卒業とともにJリーグ創設にあわせ、地元・静岡に生まれた新チーム・清水エルパルスに入団。93年のJリーグ開幕戦では、ルーキーながら背番号10を背負いデビューします。以降、2005年にユニフォームを脱ぐまでエスパルス一筋14年。長くキャプテンを務めてエスパルスに何度も優勝をもたらし、”ミスターエルパルス”と呼ばれるようになったのです。
93年の澤登選手を語る上で欠かせないゲームといえば、Jリーグ開幕を目前に控えた5月7日、ワールドカップアジア1次予選の日本対UAEの一戦です。最終予選進出のため、そして開幕が迫るJリーグの盛り上げのためにも負けられない一戦でしたが、試合は日本が先制を許し、追いかける展開に。その1分後、同点ゴールを決めたのが途中出場の澤登選手でした。ペナルティーエリアの外から放ったミドルシュートが決まり、試合は引き分けに。無敗で1次予選突破を決める、代表初ゴールとなったのです。その後、最終予選であの”ドーハの悲劇”を味わいましたが、清水エスパルスの試合では背番号10をつけ活躍。結果的にJリーグの歴史で最初の新人王選手に選ばれたのです。その表彰式で初代MVPに選ばれたのは、三浦知良選手。地元・静岡の大先輩とともに表彰される栄誉を味わいました。
【サッカー 本並健治選手】
30年前に、大きなサッカーブームを巻き起こしたJリーグ。それまで陰の存在だった守備の選手にもスポットが当たるようになりました。その1人が、ガンバ大阪の正ゴールキーパー・本並選手です。大阪府枚方市出身。大阪の清風高校から大阪商業大学へと進学し、1986年にガンバ大阪の前身・松下電器産業に入団と、生粋の大阪人である本並選手。彫りが深く、エキゾチックな顔立ちから、”浪速のイタリアーノ”の愛称で親しまれました。1993年5月16日、浦和レッズとのJリーグ開幕戦。試合は終始レッズペースで進み、シュート数はガンバの3倍以上にあたる15本。そのシュートの雨を本並選手がことごとくシャットアウト。対するガンバはコーナーキックから貴重なゴールを決め、1対0で勝利したのです。同じ日に完封勝利を飾った鹿島アントラーズと共に、本並選手はJリーグ初完封勝利を収めたキーパーとして歴史にその名を刻みました。
今でこそJ1優勝2回、アジア制覇もした経歴を持つビッグクラブになったガンバ大阪ですが、Jリーグ創設当初はリーグ下位が定位置でした。攻め込まれる試合が多く、逆にそのことで本並選手が注目を集めることに。鋭い反応とペナルティエリアぎりぎりまで飛び出す攻撃的な姿勢のゴールキーパーとして人気を集めます。また、熱いハートを持った二面性でもファンの心をとらえました。
来週のスポーツ伝説もお楽しみに!!
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