ミュージックソンの思い出(亀渕昭信)

1975年(昭和50年)にスタートとした「ラジオ・チャリティ・ミュージックソン」。24時間チャリティ番組の誕生秘話をご紹介します。

ニッポン放送LF会会報別冊「第1回ラジオ・チャリティ・ミュージックソン特集号」(平成22年3月29日発行)に掲載された原稿を転載します。
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ミュージックソンの思い出・亀渕昭信(編成部)

「コマーシャルを全部はずしてください」
ドン!
「そんなことはできません。コマーシャルは我々民間放送の命です」
ドン!!
「年に一度くらい良いことをやりなさい」
ドン!!!
「それじゃ、コマーシャルが悪だというのですか」
ドン!ドン!ドン!ドン!

キョードー東京代表(当時)の内野二朗さんと僕の上司である川内編成部長(当時)とが激論を交わしている。
まん中でオロオロしているのは、当時二人の調整約で編成デスクであった私。
昭和50年春も終わりのある日、有楽町ニッポン放送会議室での出来事である。
いつもとは違う番組、どこにもない番組、聴く人がほかの人に話したくなるような、そして、非日常的な、そんな番組を作りたい。こんな気持ちから「ラジオ・チャリティ・ミュージックソン」は始まった。
いまと違って、まだ「感動」がフレッシュだった時代。通常の番組を一日止めて、必ずや口コミやパブリシティが効くであろうチャリティ番組を編成することは、世のため人のため、そして新しいラジオファンを増やすためでもあった。
結果、「ラジオ・チャリティ・ミュージックソン」は、聴く人は勿論だったが、番組を作る側の我々にも、いままで体験したことがない新鮮な感動を与えてくれた。少人数のラジオが大型番組を作るためには、番組を作る制作部員だけでは足りず、新入社員からトップまで、総務も経理も、普段番組制作には全く関係のない部署も駆り出され、番組作りを手伝うことになった。
電話の受付や街頭募金、関係者の仕切り、食事や体調管理など、すべての部署がなんらかの形で番組にかかわる。これが更なる組織の強化と一体感を生むことになった。
実は、「ラジオ・チャリティ・ミュージックソン」は、日本で初めてのチャリティ番組ではない。お手本があった。それはミュージックソンの9ヶ月前、昭和50年3月、近畿放送(現KBS京都)で行われたテレビ番組、身障者の社会参加をテーマにした「宮城まり子のチャリティ・テレソン」であった。ローカルのみの放送だったため、知名度は低いが、称賛に値する画期的な企画であった。
また視野を広げると、特にアメリカの放送界には「あなたの力を貸してください。寄付をください」的なチャリティ番組が多い。異なった文化を持った国民を一つにまとめるために、「愛と感動」は最も効果のあるツールなのかもしれない。
さて「ラジオ・チャリティ・ミュージックソン」。昭和50年、まだ寒い春の頃、我々編成マンが、とてつもなく非日常な企画はないかと暗中模索をしているとき、キョードー東京内野さんが、昭和45年初から、ご自分が提唱・実践してきた「音楽を通じて社会貢献しよう」という運動、名付けて「ミュージックソン」(ミュージックマラソン)をラジオ番組と合体出来ないかという提案をもってきて下さった。
内野さんは、心底からミュージック・マインドを持ったプロモーター、「思い立ったらやり遂げる」という強い意志を持ったお方でもある。そんなわけで冒頭の発言、「チャリティに商業主義はそぐわない。番組を24時間買うから、CMを全部外してくれ」という言葉が出てくる。ほんとストレート球専門、滅茶苦茶を言うオヤジである。
それに対して営業畑出身の川内編成部長は「CMを外したら商売あがったり、冗談じゃない」という主張。こちらは変化球に強い、元厚顔の、いや元紅顔の美少年である。
ドン!ドン!という音は、興奮し激論している二人が、机をひっぱたく音なのだ。しかし、さすがに業界、大人の会話。何度も何度も話合いをするうちに、この企画、なんとかまとまった。あとは、いつもと同じ、時間との戦いだった。
日本人が財布から一番お金を出しやすい日はクリスマス・イヴ。だから放送日は、12月24日に決定。チャリティの対象は、ラジオを一番頼りにしてくださる視覚障害者の方々への募金とする。番組パーソナリティは、当時、ラジオ番組「欽ちゃんのドンといってみよう」で大変な人気のあった萩本欽一さん…と書けば簡単だが、オンエアの日までスタッフの仕事は、通常の番組制作とは別に、電話局や銀行との折衝、役所への届けなど、いくらでも無限大にあった。こちらも相手も、誰も経験したことのない番組をつくるという大変な作業だった。社員全員、必死で働いた。
12月24日のオンエア当日、放送開始以降、1分ごとに奇跡が起こった。募金の電話は最後まで鳴り止まなかった。街頭募金に行った自動車の後部トランクは集まった硬貨の重みでパンク寸前、危険な状態になった。ドでかいダンプ・トラックが社の前に横付けされ、威勢の良いトラック野郎達が握りしめた千円札をチャリティ募金の箱に入れてくれた…。
24時間が経った番組終了時のスタジオ。欽ちゃんは勿論、スタッフ全員が感極まって、涙した。
春先、机をひっぱたきながら大激論をしていた内野さんと川内編成部長、二人とも感動し、涙をボロボロ流しながら、何度も何度も固く抱きあい、ハグ・ハグしていた。素晴らしい新宿二丁目状態。記憶に残る美しい光景だった。
内野さんは、平成16年6月15日、亡くなられた。享年76。
「ラジオ・チャリティ・ジュージックソン」のテーマ曲は、ニニ・ロッソが演奏する「夢のトランペット」。ミュージックソンを経験したスタッフやニッポン放送を楽しみに聴いてくださっているリスナーの方々には、決して忘れられない名曲だ。

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