熊谷実帆 カラフルダイアリー

2022.08.12

御巣鷹の尾根へ

    今日、8月12日(金)で、日本航空123便墜落事故が発生してから37年です。1985年8月12日(月)、日本航空123便が群馬県多野郡上野村の山中に墜落した航空事故。リスナーの方の中でも、この事故当時のことを今でも鮮明に覚えているという方もいらっしゃるでしょうし、なんとなく耳にしたことがある、あるいはまったく知らないという方もいるかもしれません。

   私は、毎年この時期にお伝えしているものの、ニュース原稿の表面だけを理解していてその実態を把握しきれていませんでした。先日、事故現場である御巣鷹の尾根へ取材に行ってきました。拙い文章ながら事故現場に取材に行ったからこそ感じたことをここに綴ります。

    123便は東京国際空港、現在の羽田空港を出発して、大阪国際空港、現在の伊丹空港へ向かう定期旅客便でした。ちょうど夕方のラッシュ時、お盆シーズンということでご家族連れが多く乗っていました。もちろん一人で出張中、旅行中だった方もいましたし、たった一人で乗っていた男の子もいました。

  524人を乗せた航空機は離陸後、機体後部の圧力隔壁が破損しました。それによって尾翼と動力装置が脱落し、操縦不能に陥ります。18時56分30秒ごろ、標高1565m、御巣鷹の尾根に墜落しました。飛行機はほぼ裏返しの状態だったそうです。そののちに山の斜面をずるずると滑り落ちる形になりました。圧力隔壁の破損からおよそ30分間の迷走飛行を続けましたが、乗客乗員524人のうち、520人の命が犠牲となりました。4人の命は助かりましたが、これはほぼ奇跡に近いといっていい状況だったそうです。

   まだ現在のような機器などがない時代、飛行機がどこに墜落して、誰が乗っていたのか、瞬時に把握できる状況ではありませんでした。当時ニッポン放送はどのような状況だったか、上柳昌彦アナウンサーに話を聞きました。上柳アナウンサーは急遽特番を担当し、乗客乗員名簿を何度も繰り返し読みながら、そのご家族や知り合いの方がいたらどんなことでもいいので情報を送ってくださいと伝えたそうです。

    すると番組の中で、この事故を実際に見たという鶴田重樹君から目撃情報が届きました。私も実際に音声を聞きましたが鶴田くんがその時見た様子を驚きとともに素直に伝えくれているのが分かりました。墜落現場すら分からないタイミングで、ラジオを通じて集められた情報はこの時代、とても貴重だったと思います。

   御巣鷹山の入り口には慰霊登山に来た人の数を計測するカウンターがあり、それを押して登山を始めました。登っていくにつれてあちこちに墓標が立てられていることが分かります。そのひとつひとつに手を合わせながら登って行きました。慰霊碑に到着し、そこまでの道を見下ろすと数々の墓標が、山の広い範囲に点在しているのが見えます。この山全体に、犠牲者の方の魂が眠っている、事故の規模の大きさを実感しました。

    取材を終えた後、上野村の有志のみなさんでつくった、身元の分からない犠牲者の方のご遺骨が納められた「慰霊の園」という施設に行きました。そこでとても印象に残った言葉があります。

当時の猟友会会長、仲澤太郎さんの言葉です。

「自衛隊、警察、報道などの集めた情報を一つに集約し迅速に共有できていればもっと早く現場に到着できもっと生存者もいたのではないかと強く感じた」

    37年前、情報の入手が困難な時代から現代は大きく変わりました。一人一台携帯電話を持っていることが当たり前になり、ネット環境も発達しています。消防や警察、救助隊のネットワークも強化されています。それでも、37年前ニッポン放送の番組内で、上柳アナウンサーが何度も乗客乗員の名簿の名前を伝え、目撃者の声や情報を募ったように、リスナーのあなたの声は、どんなに情報化が進んだ現代でも大きな情報源となります。

   「情報が人の命を救うことができる」ということをリスナーのあなたもぜひ忘れないでいてほしいと強く思います。私自身も、実際に取材したからこそ感じた、その規模の大きさやご遺族の方の思いを誠心誠意言葉にして伝え続けていきます。

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