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日本外来小児科学会会長、横田俊一郎さん。「1・57ショック」とは?

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1月26日(日)の放送では日本外来小児科学会会長の、横田俊一郎さんに開業医になられたきっかけのお話をお伺いしました。

淵澤 去年「平成という時代」が幕を閉じましたが、
   今から30年前の1990年平成2年
   小児科医にとって、ショックな数字が出たそうですね。

横田 この年の、合計特殊出生率(ひとりの女性が生涯に産む子供の数)が
   「1・57」。1966年の丙午の年が「1・58」。
   これを下回ったので「1・57ショック」と言われ
   出生数が減っていることに対する危機感が世の中に広まった年でした。

淵澤 病院などに影響はあったのですか?

横田 東京都内の大きな病院の小児科が閉じるということが
   いくつかありました。
   小児科はやっていけないのでは?という危機感が我々にも生まれました。

淵澤 そして現在、横田さんが会長を務める
   「日本外来小児科学会の研究会」が誕生したのが1991年平成3年。
    どのような経緯で誕生したのですか?

横田 医療というのはどんどん細分化され、臓器ごとわかれていくわけですが
   小児科も比較的、そのような傾向にありました。
   ただ、そうではなく「子供をまるごと診る」ことが
   必要なのではないかという考え方がアメリカで起きました。
   そしてそのような情報を知っている日本の小児科の先生が何人か集まって
   日本でもそういうものを作ろうということになりました。

   ちょうど、その準備会が始まった時、
   大学の教授から参加してみないかと言われたのがきっかけで
   私も携わるようになりました。

淵澤 それが平成3年。30年ぐらい前ですね。
   そして横田さんも、1993年平成5年に地元の神奈川県小田原で
   お父さまの病院を継がれたそうですね。

横田 一番大きなきっかけは、日本外来小児科学会の活動に参加して
   全国の色々な開業医の先生と知り合ったことです。
   みなさん、素晴らしいんですね。研究もしているし。勉強もされている。
   こういう方々がいるんだったら自分も開業してもいいな!と思いました。
   本当はもう1、2年、東京でやりたかったのですが、
   父が病気をして診療を休まなくてはならなくなったもので
   それだったら思い切って、(小田原に)帰ろうと思いました。

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