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福藤豊選手が頑張るために大事にしている言葉

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ゲストは、
日本人初のNHLプレイヤーで、
栃木日光アイスバックス所属、
そして、日本アイスホッケー選手会 初代会長、
福藤豊選手です!

 




 福藤豊選手のプロフィール】

福藤豊選手は、1982年9月17日生まれ、北海道釧路市出身。
小学3年からアイスホッケーを始め、
宮城県・東北高校3年で高校生として初めて日本代表選手に選ばれた。
2001年にコクドに入団、2005年に、世界最高峰のアイスホッケーリーグ、
NHLのロサンゼルス・キングスと2年契約を結び、
日本人初のNHL契約選手となった。
2007年にデビュー。
2010年から栃木日光アイスバックスに4シーズン所属、
その後、海外移籍を挟んで、
2015年からは再びアイスバックスでプレー。
日本代表には、18歳で選ばれて以来、
およそ20年もの間、日の丸の責任を背負ってきた。
現在は、日本アイスホッケー選手会の初代会長も務めている。

 



1982年生まれで東北高校ということは1個上に荒川静香さん?

そうです。でも校舎が違ったんですよね。
そういうスポーツで有名な選手とかがいる泉キャンパスと、
僕たちがいた小松島キャンパスって結構離れてて。
アイスホッケーは普通の校舎で練習してたので。

 

-釧路市のご出身、アイスホッケーを始めるというの自然な流れ?

そうですね。小さい頃から身近に
アイスホッケーってスポーツがあったので。
近所の友達がやってるのを見て、
かっこいいな僕もやってみたいなーって感じの流れで始めましたね。

 

-最初のポジションは?

フォワードです。
やっぱり点を取るのが楽しそうだなと思って始めたので。
そこは普通でしたね。

 

-サッカーの場合、フォワードやってた子が
最終的にゴールキーパーになるって言うのは極めてレア。
福藤さんはなぜ?

当時の監督にちょっとやってみないかって誘われたのがきっかけですね。
当時から身長高かったんで、どう?みたいな軽いノリでしたね。

 

-面白くなり始めたのは?

シュートを取る感覚がわかってきて、
徐々にできるようになってきてからですね。
ゴールキーパーとして試合に出て、勝ったりとか。
そういう事を積み重ねていくうちに、
ゴールキーパーって楽しいかもって思うようになりましたね。
当時は釧路にも十条製紙(現在の日本製紙)っていうチームがありましたし、
将来いつか自分もこういうところでプレーができたらいいなと思ってましたね。

 

-NHLという存在が頭に入ってきたのは?

もちろんNHLってのは知ってましたけど、
そこまで現実味がなかったんですよね。
今ほど簡単に試合を見ることもできなかったですし。
それを意識し始めたのは18歳、高校卒業してからぐらいだと思います。

 

-きっかけは?

高校生として代表に選ばれて、
世界選手権とかに連れて行っていただけるようになって。
初めて日本以外のホッケーを見たんです。自分の目で。
カナダ、アメリカ、チェコ、ロシア、スウェーデンという
トップの選手が来てる大会に出てたので、
そういう選手たちを自分の目で見て、
「こういう世界もあるんだ」。
やるからには上を目指したかったし、
「こういう世界で自分もいけるのかな」っていうことが
最初のきっかけだったかなって思いますね。

 

-手が届かない存在には感じられなかった

どうやって行っていいかわからなかったです。
正直なところ。
海外に出るって事が今みたいに当たり前のことじゃなかったので。
どうしたらいいのか、まずアメリカだろうなっていう感じでした。
そこで自分をその環境に身を置いて高めていきたいな。
って思いましたね。

 

-何か行動を起こされたんですか?

当時、コクドに所属していたんですけど、チームの方に、
「もっと上を目指してアメリカ行って、もっと上手くなりたい」
そんな感じで最初相談しに行った気がしますね。
海外でやってる人なんてそんなに多くなかったので。
そこまで注目はされてなかったですけど、
アイスホッケー界ではそういう存在は知っていたので。
本気で考えていただいて。
チームは、外国人選手を呼んできたりとか、
外国人選手の知り合いのやり取りもあるので。
そういった人に聞いていただいて。
僕が行けるようなチームをっていうとこから始まりましたね。

 

-それがドラフトに繋がるんですか?

そこは違います。
まずホッケー留学っていう感じでした。

 

リクエスト曲は?

 Smells Like Teen Spirit / ニルヴァーナ 

 

中学時代にニルヴァーナ。カート・コバーンですよね。
それを見て、すごい衝撃を受けて。
ファッションもかっこいいし、
ちょうどグランジファッションが流行りだした時で、

本当に衝撃を受けて。
なんだこの人っていうのでそっからも本当に影響されて。
ずっと聞いてますね。

 


そんな福藤豊選手に金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!

『金子の深堀り!』


1年間シンシナティ・サイクロンズに留学から帰ってきてそこからは?

高校生代表に選ばれて、コクドに入社して。
そこそこの試合を出させて頂いて、アメリカに行ったんですけど。
何も日本で成し遂げてはいなかったので。
日本でチームの正ゴールキーパーを取ったわけでもなかったし、
そういったことをクリアしてからでも
海外に行くの遅くないじゃないかなっていうの思ってましたね。

 

-NHLが近づいたのは?

その年が終わってからですね。
日本に戻ってきて、西武鉄道とコクドが合併して
一つになった年だったんですけど、
そこで正GKをはらしていただいて、全日本選手権優勝して、
リーグも優勝して、ベストGKもいただいて、
日本での結果をその年に残したので。
今度はちゃんとプロとして、行かなきゃいけないなーって。
日本での実績ってそこまで海外で評価されない。
ただ海外に意識を向けないと海外に行くこともできないので。
そのきっかけになったのがその年の世界選手権。
正GKとして試合に出場することができて、
勝てなかったんですけど自分なかでは、
そのレベルで中で、21歳とかの年齢を考えると、
ある程度の手応えはつかんでたので。
そこが終わってドラフトに繋がるんですよね。

 

-キングスのスカウトが当時の日本代表の監督

僕、当時は知らなかったんですけど、そういう話をいただいて。
ただなんかアンケート出された時に
「どういう選手になりたいか」。
日本代表でアンケートを書いたんです。
自分の長所・短所、自分がこのチームに対してどういうことができるか、
将来どういう選手になりたいか。
僕もNHL選手になりたいって書いたので、
そういったことも見てくれたのかなと。
今では思いますけど。

 

-ドラフトはどのような心境だった?

待ってましたね。もしかしたらかかるかもって言われたんで。
かかるといいなと思ってましたね。

 

-日本でですよね?中継とかは?

ないです。僕はその時オフだったので、会社で働いてたんです。
自分の地元に戻ってホテルでプリンスホテルで営業活動したんですね。
オフになると働かなきゃいけないので。
働きながら、ドラフト会議が日本時間で夜中だったので。
半分ちょっと緊張で起きててみたいな感じの状態だったんですけど。

 

-どの状態で伝えられた?

夜中の2時、3時ぐらいだったと思うんですけど、
非通知で電話がきて。そんな時間にかかってくることはなかったので。
出たらグレン・ ウィリアムソン監督で。
キングスが8巡目で君を指名したぞって。
もうなんか鳥肌でしたね。
今でもなんかそわそわしちゃうんですけど、
すごく嬉しかったのは覚えてます。

 

-NHLはいかがでした?

リンクの環境とかっていうのは、
マイナーでも1万人ぐらい入るので。
それの倍ですけど、すごい差を感じたわけじゃないですけど、
待遇面の差は凄かったですね。

 

-2007年でついにデビュー。どのタイミングで言われる?

その時は、一つ下のAHLっていうマイナーにいたんです。
朝5時ぐらいに連絡が来て、上のGKが怪我をしたっていうのは聞いて。
もしかしてあるかもって。
それで、荷物をまとめてマンチェスターにいたんですけど。
悪天候で飛行機が飛ばないって言われたんですよ。
それでボストンから飛んでるって言われたので、ボストンまで行って。
その日、アメリカ全体が悪天候だったんですかね。
ボストンから飛んだのも奇跡ぐらい。
試合が次の日だったので、僕自身、叶えたい夢がもう目の前にあるのに
なかなかうまくいかないわけです。
試合が2時とかぐらいなんですけど、それに間に合うように朝一の便で。
その日の朝も寝れないすっよ。
楽しかったは楽しかったんですけど。
予定通り飛んだんですけど、次は防具バックが出てこないんですよ。
よくあるんですけど、それだけは避けて欲しいなって思ってたんです。
そしたら裏にあったんです。はじに寄せられてて。
大きい荷物だったからって言うのもあれだと思うんですけど。
それで無事に受け取って、タクシー乗って会場入りしたんですよね。

 

-体調とかメンタルとかぐちゃぐちゃですよね?

正直ぐしゃぐしゃではありますよね。
チームに合流したら、みんな拍手で迎えてくれて。
間に合ったから。それで初めてユニフォームに袖を通して、
試合だったんですがその日は合流しただけだと思ってたんですけど、
第3ピリオドの途中で、まさかないよなぁと思ったんですけど、
監督が僕んとこに来てくれて、言い方もすごくかっこよくて。
「今日の試合で歴史を作るぞ」みたいなこと言われて。
僕の出番が回ってきたんです、すごい世界でしたね。
18000人くらいの観客が入ってるところだったので、
今まで味わったことのない空間だったので、緊張はしてたんですけど、
宙に浮いた感じというかふわふわしてましたね。ずっと。
すごい目の前が眩しく見えました。今でもそれは覚えてますね。

   


そんな福藤豊選手が今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?

『ENOUGH IS NOT ENOUGH』

僕が参加したチームのスローガンみたいな感じで、
チームに貼り出されてたんですよね。
「ENOUGH」って十分って意味だと思うんですけど、
「自分が頑張ってるって思ってても、周りはもっと頑張ってるのかな」
という解釈でずっといましたね。
自分がどれだけ本当に今日頑張れたかなって。
自分に問いかけるようになりましたね。
これは競技をする中で大切にしてきた言葉ですね。

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