• Facebook
  • Twitter
  • LINE

岩渕健輔ヘッドコーチが青山学院初等部時代に言われた言葉

  • LINEで送る

ラグビー7人制男子日本代表の
岩渕健輔ヘッドコーチです。
 




 岩渕健輔ヘッドコーチのプロフィール】

岩渕健輔さんは、1975年東京都生まれ。
青山学院初等部の3年生からラグビーを始め、
青山学院大在学中、日本代表に初選出された。
卒業後の1998年に神戸製鋼入社後、ケンブリッジ大学に留学、
2000年にイングランドプレミアシップのサラセンズ入団。
その後フランスのコロミエ、
7人制日本代表の選手兼コーチなどを経て、
2009年に日本ラグビーフットボール協会入り。
2012年に日本代表ジェネラルマネージャーに就任、
2015年のラグビーワールドカップイングランド大会では、
グループリーグで3勝を上げ、
翌年のリオ・オリンピックでは
7人制代表が強豪の
ニュージーランドを破り4位に入賞するなどの成績を残されました。
2017年、Team Japan 2020、男女7人制総監督に就任。
現在は、日本ラグビーフットボール協会専務理事、
ラグビー7人制男子日本代表のヘッドコーチを務めている。

  



小学校低学年の頃は、
色々なスポーツをしていた中でなぜラグビーを?

小学校でラグビーを始めたんですけれども、
小学生の時って仲間と色々行ったりとか、
休みの日に遊びに行ったりするのが好きだと思うんですけど。
学校でクラブがあって、それで休みの日にクラブの仲間と、
試合を見に行ったりとか、遊びに行ったりすると。
そういう関係性がおそらく好きになって。
それから逆に競技が好きになっていったという感じですね。

 

-青学でラグビーをやってJAPANは珍しい?

小学校からラグビー部あるんですけれど、
そんなにラグビーに力を入れてるわけではない。
そういう意味では、
みんなで色んなことを工夫しながらやってたので、
そういうのがかえって良かったのかなと思います。

 

-日常の切磋琢磨ってのも欠かせないと思うんですが、
なぜJAPANまで?

切磋琢磨するのは、
選手としての能力を向上させる大きなポイントだと思います。
ただ仲間がすごく良かったんだなと思います。
たまたま仲間が運動能力が比較的高い人間が多くて、
学校はそんなに強くなかったんですけど、
周りにすごくレベルの高い選手がいたので。
高校では東京都の決勝で負けたんですけど、
國學院大學久我山ですね。
そういう意味では周りがやっぱすごくレベルが高かったので、
日常の切磋琢磨は、
そんなに部員も多くない中で出来てたのかなと思います。

 

-選手個人として青学1年生の頃はどんな未来図を描いていた?

当時ラグビーを社会人で続けるのは、
ごく限られたトップ選手だけでしたし、
ラグビーを生業にしていくのは無かった発想だったんです。
当時、大学に行く時に、海外の大学に行きたいっていう思いが強くて。
それはやはり五カ国対抗という
ヨーロッパのラグビーとか、香港セブンズとか、
ラグビーの一大イベントを見て育ってきたので、
そういうとこでやってみたいという思いが凄く強かったんですね。
不思議と、ラグビーとしてあんまり強い学校じゃなかったので、
なんとか大会で優勝して絶対にこうならなきゃいけないっていう
発想ではなかったんだろうなと思うんです。
花園に出ることは目標でしたけど、海外に対する漠然とした憧れとか、
ああいうところでやってみたいなって思いが強くて。
大学に行く時にそれも一つのオプションとしては考えてたんですね。
ラグビー選手としてもそうですし、
卒業した後、ラグビーだけで生きれないというのは
当時のラグビー界でははっきりしてたので。
海外で仕事をするっていう漠然とした憧れもあったので。
当時はサラリーマンというか、
国連とかそういうのに興味がありましたね。
 

 

リクエスト曲は?

 トーン / ナタリー・インブルーリア 

 

一番大きな人生の転換期って、大学を卒業する時に
どういうことをしていくかっていうのを
考える時だと思うんですけど、
当時大学3年生で海外に行きたいなと強く思って、
イギリスに留学の準備に入ったんです。
その時、冬だったんですけどすごく街で流れていて。
その当時すごく流行っていたので、
この曲は自分にとっては、思い出に残る曲だと思っています。

 


そんな岩渕健輔ヘッドコーチに金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!

『金子の深堀り!』


イギリスではどうでしたか?

その頃、日本代表にも選んでいただいてて。
ラグビーで挑戦したいなという強い気持ちと、
なかなかラグビーで生活していくっての難しいなという、
両方の気持ちがあって。
自分の気持ちを叶えてくれる場所はどこだと考えた時に、
当時、1995年からラグビーがプロ化になったんですけど、
ちょうど私がイギリスに行ったのが1997年ぐらいで、
そういう場所で一回挑戦してみたいということで、
イギリスに行きました。

 

-何があったんですか?

まず大学に1回留学をしようと。
ケンブリッジに行って。
いろんな方に話を聞いていく内に、
やっぱりここにどうして行きたいなという強い思いがありましたね。

 

-よく受けようと思えましたよね?

そうですね。
今になって思うと、なんでそういう決断をしたのかなって
不思議ではあります。
19歳〜21歳ぐらいのいい意味での勢いというのがあったし、
自分はこうするんだっていう
強い思いがあったのは間違いないと思いますね。

 

-日本人にラグビーができるのかという
周りの目はなかったんですか?

それが一番最初で。
自分が日本人なんだなってすごく強く認識しましたね。
日本のラグビー選手とかラグビー界とかで、
代表のジャージを着て戦っている意識はすごくありましたけど、
一人でそういう世界に入った時に、
自分を通して、日本のラグビーは
そうやって見られてるんだなーってのは、
強く痛感しましたね。

 

-オックスフォード大学との試合に出場すると
「ブルー」という称号を手に入れるのは
知識として知ってましたけど、手にした時の喜びは?

 

もちろんすごく嬉しかったです。
ただ不思議と自分が選ばれるか選ばれないかっていうことよりも、
オックスフォード大に勝つという目標の方が
すごく強くなってたんですよね。
なので不思議と自分がそういう環境の中に入って、
それを勝ち取るためにやってたんですけど。
そこでも仲間にも恵まれて、
そういう思いでプレーができるようになってたっていうのは、
すごく幸せだったなという風に思います。

 

-目標に辿り着いたあとは?

大学は2年間という風になってたので、そこで卒業します。
その時、神戸製鋼にもお世話になってましたので、
日本に戻って神戸製鋼で仕事をさせて頂きながらプレーをするのか、
イギリスに残るかって選択肢がありました。
最終的に、チャレンジの中で、
どうしてもプロのチームに入ってプレーしたいと思うようになって。
最終的に、ロンドンにあるチームで
プレーをできるようになりました。

 

-当時の日本ラグビーで世界で戦えると感じた人は
岩渕さん以外いない印象があります。自信の源は?

やっぱり自分自身がその中に入ったことと、
自分が日本からイギリスに行って、
世界中のトッププレイヤーと一緒の環境でできるようになって。
一緒にやってみると、
トップの選手たちはこういうこと考えてるんだとか、
こういうレベルなんだっていうのを
毎日一緒に練習しますんで、何よりも大きな自信で、
何よりも正しい情報だったので。
こういうことだったらこうやってやっていけば
何とかなるんじゃないかとかは強く思いましたね。
ただ試合やってるだけだとなかなか分からないですけど、
毎日のように一緒に生活をして同じように練習をしてれば、
世界でトッププレイヤーとされる選手も、
実はこの辺は自分が勝ってるよねとか。
やればわかるわけですよね。
それがやっぱり自分にとってはすごく大きかったですし。
逆に日本のラグビーが少しずつ前に進めてるのは、
国内でチームにトップの選手たちと、
トップの指導者がいて一緒にやれてるってのものすごく大きいと思います。

   


そんな岩渕健輔ヘッドコーチが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?

『あなたが青山学院です』

これは小学校の時ですね、
それは私に対してだけじゃなくて、
なんでそんなことを言ってたのかなーって今になって思うと、
いろんな考えがあるんですけど。
小学生なんでいろいろ悪戯とかするじゃないですか。
当時私は小学校を電車で通っていて、駅から歩いて。
色んなところから色んな生徒が集まるわけです。
そうするとどっかで、いたずらとかするわけです。
その時に「〇〇くん」とか、「〇〇さん」じゃなくて、
あなたがしたことは青山学院全体として見られるんですよと、
最初は言われてたんだと思うんですよ。
だから外で活動する時にしっかりしなさいということだと思うんですけど。
今になって思うと、自分がイギリスに行って、
自分を通して日本が見られたりっていうのと全く一緒だなって思って。
すごく重い言葉だったなって思います。

聖教オンライン

ニッポン放送の番組一覧

他の番組を見る >