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土井レミイ杏利選手が中学の時から大事にしている言葉

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ハンドボール男子日本代表
彗星ジャパンのキャプテン・土井レミイ杏利選手です

 




 土井レミイ杏利選手のプロフィール】

土井レミイ杏利選手は、1989年、フランス・パリで、
フランス人の父と日本人の母の間に生まれた。
3歳で千葉県香取郡に移り住み、
8歳からきょうだいの影響でハンドボールを始めた。
埼玉の浦和学院高校から日本体育大学に進学、
2012年に大学を卒業後、フランスに語学留学。
フランスの名門チーム「シャンベリ・サヴォワ・アンドバル」に
練習生として加入され、2013年にプロ契約。
2019年から日本の大崎電気工業ハンドボール部に移籍。
ハンドボール男子日本代表のキャプテンとしてチームをけん引。
SNSで競技の普及にも尽力、
TikTokフォロワーは、230万人以上。
愛称“レミたん”として大人気。

  



幼い頃はサッカーに夢中にだった?

夢中だったというか、サッカーを始めたかった。
その時に同じようなタイミングで
兄と妹がハンドボール始めて。
ある日、彼らが練習しているところを見学しに行ったら、
「まあ横で見てないで一緒にやりなよ」ってなって。
練習に参加したらもうサッカーのことは忘れてたっていう感じです。

 

-何が惹きつけた?

分かんないんですけど、今よく考えてみると、
あの日やたら監督に褒められたんで、
子供ってやたら褒められると楽しくなっちゃうじゃないですか。
だから上手いことやられたんじゃないかね。

 

-そこからはハンドボール一筋で大学は日体大。

高校の時も1度インターハイ3位まで行ってますし、
それくらいの実力のある高校なんですけど。
日本一を経験したことがなかったんですね。
早稲田と日体大って二つの選択肢があったんです、推薦で。
僕はそれで日体大を選んだんです。
早稲田も本当にすごいチームでやりがいはあったんでしょうけど、
その当時は日体大が本当に圧倒的だったんでそこに入りました。

 

-日体大で日本一になってからの目標は?

最初から僕の夢っていうのが世界一だったんですね。
そういう風に育てられてきたんで。
親は基本的に放任主義。
その代わりいろんなことを経験させてくれるんです。
好きなものを自分で選びなさい。
やるからには、世界一になりなさいと、
ずっと言われて育ってきたんです。
だから自ずとならそれが当たり前じゃないですけど、
常にワールドワイドなビジョンは頭の中にあって。
日本一というのはただの目標であって、夢ではなくて。
その先は大学卒業したら実業団入って、
日本代表に入って世界と戦うというのが当時のビジョンでしたね。

 

-そのビジョンに狂いが生じ始めたのは?

大学4年生の時ですね。
膝がおかしくなり始めて、
最後の大会は本当に両膝ぐるぐる巻きでやるような、
そんな感じでしたね。
僕はハンドボールを愛してるからこそ、
中途半端に続けたくないなと思って。
もう本気でやれないんだったらもうやめようと決断をしました。

 

-どうやって立ち直ったんですか?

想像してみたんですね。
ハンドボールを失って何が自分に残ってるかって見つめ直したら、
何も残ってなかったんです。
でも逆に言ったら伸びしろしかないし。
新しい環境に身を置くことが好きなんです。
今までの挑戦と同じように、チャレンジすることが好きなので。
これは切り替えて、いきなり就職活動するのではなくて、
ある程度その語学っていうのが話せるようなったら、
今後の就職にも役立つんじゃないかと思って。
フランス語を学びにフランスに1年行って。
帰ってきて次は英語圏に1年ぐらい行って、そこから就職活動して。
その間にやりたい仕事も見つかるでしょうしぐらいの気持ちで。

 

-そこでハンドボールと再び出会う?

1ヶ月ぐらい経った時に、外に走りに行ったんです。
その時に気付いたんです、膝の痛みが消えてたことに。
どうしてかは僕分からないんですよ。
多分、あっちの空気だったりとかチーズとワインじゃないですかね。

 

-プロのセカンドチームに入った?

瞬時にハンドボールやりたいっていう欲が湧いてきて。
やっぱり1回失った人生を取り戻せるとなった時は
もうすごい嬉しいもんで。
だから趣味程度でいいから、
また楽しくやれたらなぁぐらいの。
本気でまたやるつもりなかったんですよ。
試合に出られなくても、練習に参加できればオッケーだった。
そこでクラブが紹介してくれたのが、
プロの一個下にあるセカンドチームだったんです。
僕はその当時、そのチームがセカンドチームだってことも知らなかったですし。
どのレベルのリーグでやってるかも分からないまま、練習参加してたんです。
 

 

リクエスト曲は?

 僕のこと / Mrs. GREEN APPLE 

 

この歌の最後のフレーズなんですけど
「僕と君とでは何が違う?
 それぞれ見てきた景色がある僕は僕として、
 いまを生きてゆく
とても愛しい事だ」
って言うセリフでこの曲が終わるんですけど。
これが、素晴らしい歌詞だなって思ったので
皆さんにもぜひ意味をしっかり考えながら聞いてほしいです。

 


そんな土井レミイ杏利選手に金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!

『金子の深堀り!』


3部リーグ・セカンドリーグのレベルは?

セカンドチームであれ、フランスはスゴイ強豪国なんで、
日本リーグぐらいのレベルはあったんじゃないですかね。

 

-全く敵わない訳ではなかった?

全然通用しました。
人って楽しいと思ってる時って、何やっても上手く行くんですよ。
特にプレッシャーもなかったんですよね。ただただ楽しい毎日。
本当は練習できれば良かったんですけど、
その練習風景を見てて監督が
「お前ちょっと試合に出てくれないか」って誘ってくれて。
シーズンの残りの半分ぐらいを
セカンドチームの一員として試合することになって、
めちゃめちゃ活躍しちゃったんです。
「こいつは一体何者なんだ」みたいな。
そのシーズンが終わる頃に、僕はもう帰る準備したんですけど、
クラブから電話かかってきて
「プロ契約させるから荷物はまとめるな」みたいな連絡が来て。
驚いてその時は携帯落としそうになりました。
もうそこからプロ契約ってなっちゃったんですね。
 
-どんなチーム?
2012年にフランスに行ったんですけど、
ロンドンオリンピックの決勝はフランス代表が戦って、
優勝するんですけど。
その瞬間はホームステイ先のテレビで僕見てるんです。
そのプロ契約した先のチームが、
その優勝した金メダルのメンバーがゴロゴロいるようなチームなんです。
だから一度引退して、趣味でハンドボールやって楽しんでたら、
次の日にはゴールドメダリストたちの横で靴紐を結んでたんです。

 

-今度こそギャップは感じた?

何もかもが、違いましたね。
パワーも賢さも。
メンタルの強さも全然違いました。

 

-色んな所で差別と直面したとか?

セカンドチームでもあったと思うんですけど、
僕のフランス語のレベルが差別を理解するレベルではなかったんです。
フランスの文化を理解するレベルでもなかったんで、
普通に誰かに何か言われててみんなが笑ってる、
何か面白いことを言ったのかなと一緒に笑ったんですよ。
それが徐々に近くなればなるにつれて
何を言ってるかが理解できるようになって。
理解できた時にはもう差別されてるっていう。

 

-日本にいる限り外国人で見られることの方が多いと思うんですよ。
僕らからするとフランス人な土井さんなのに、なぜ?

あっちからしたら半分フランス入ってるなんて関係ないんですよね。
もう日本から来てるっていう時点で、
完全にアジア人蔑視の発言が飛び交っちゃう。
チームメイト、サポーターもそうですしスタッフからも
そんな呼ばれ方が毎日続きましたね。

 

-差別は気になりました?

最初は全然気にしてなかったんですよ。
高校、大学と上下関係の厳しいところでやってたんで。
もうテレビで見てた世界のスーパースターだし。
彼らに何を言われようが最初はヘコヘコしちゃってたんです。
でもそれが良くなかったんです。
フランスって自分を出さないやつは仲間に入れないんですよ。
僕はそんなことわかんないじゃないですか。
誰か教えてくれたわけでもないし。
だからずっと自分を隠して、相手に気を遣って。
フランスってチームメイトになったらもう年下年上関係なく、
敬語なんてないし。仲間、家族みたいに過ごすんです。
それに自分で壁を作っちゃってたんです。
相手を気を遣うことで壁を作ってるっていう風に判断される。
フランスからしたら自分のことを言えない奴は
何も考えてないやつだって思われる。完全に下の人間。

 

-イメージを変えるのは大変だったのでは?

すごく大変でした。本当に極限まで追い込まれて。
何が一番辛かったかと言うと、孤独だったっていうことですね。
誰に相談しても結局心に刺さらないんですよ。
その人自身が同じ経験、同じ苦しみを味わった人の言葉じゃないから。
だから何も刺さらなくて、でもこのままじゃもう終わっちゃうなって。
その孤独のせいで追い込まれちゃって、
これは自分自身を変えないともう終わっちゃうなと思ったんで。
ウィンターブレイクが2週間ぐらいあるんで
その時に自分を入れ替える努力をしました。
 

-その時点では不安だったのでは?

何かをやるときに、上手くいかないかもって考えないんです。
ネガティブな事をまず考えない性格で、
とりあえずやってみよう、やった先にダメだったら、
そこからまた分析して考えていこうって。
やる前からあかんかもなっていう不安が一切ないんですよね。
ただ一つだけ希望はあったんです。
人間関係さえ良くなれば、
僕はハンドボールの実力だけを自分で分析したら
俺は活躍できるってその自信だけはあったんです。
小さい光だったけど、それがずっとあったのは
自分がその後盛り返せる一つの起点となりましたね。

 

-フランス生活は結局何年?

合計すると7年ぐらいですね。
最後の年は結局2部リーグのチームに所属してて。
そのチームで2部リーグ優勝して1部に押し上げて、
日本に帰ってきたっていう感じなんですけど、
すごい良い思いでになりましたね。

   


そんな土井レミイ杏利選手が今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?

『無知の知』

中学校の時ですかね。
僕、中学校の時から、
世の中に存在する名言というのをメモしてるんですね。
小さいノートなんですけど、未だに持ってます。
今でも書き留めてます。
ソクラテスの言葉で、まず自分が無知であることを知りて、一歩目。
自分がどういう点で愚かなのかっていうのに気づいてやっと一歩目だよ。
っていう言葉なんですね。
僕は常に自分のことを第三者の目に立って自分を観察して、
「あ俺こういうところがまだダメだな」っていうのに、
まず気付くことが大事。
そこに気づけなかったら、やっぱり成長できないんですよ。
だからまず気づいて、そこからじゃあどうしたらいい、こうしたらいい。
それでチャレンジして、失敗も繰り返すけど、
そこからさらに勉強してチャレンジして。
そして最終的に成功まで導くっていう最初の一歩目が
「無知の知」なんですよ。
だからこれはアスリートにも限らず、
全ての人において人間が成長するときに、
自分が無知であることを知るっていうところが
そこに気づくということが大事だと思うので、この言葉にしました。

 

-ハンドボールだけが大好きというわけじゃないんですね。

ハンドボールをやってる時以外は
ハンドボールに関わっていたくないタイプなんで、
色んな事に興味を持って、
色んな事をやりたいタイプなんです。

 

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