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原田雅彦さんが励みになる全てが詰まった一言

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今週のゲストは、
1998年長野オリンピック
スキージャンプラージヒル団体で
金メダルを獲得した原田雅彦さんです。
  


今回は、
原田雅彦さんの『相棒』=「こだわりの用具」に迫りたいと思います。

コーチになってからのトランシーバーと、ビデオカメラ。
これがとにかく手放せないアイテムです。
 
-何につかうんでしょうか?

風のやり取りをするんですよ。
ジャンプにものすごく影響するのが風の向きなんですね。
コーチっていうのは選手が飛んでくる状況をいつも見てて、
一番良い状況でスタートさせたいという風に思ってます。
そこで、下にいるコーチとトランシーバーで通信しあって
「今の風はどうだ」「何番の選手が飛ぶぞ」
「上はどうだ?」「下はどうだ?」
一瞬たりともが漏れがないように。
一瞬で風向きって変わるので。
このやり取りを延々やるんですよ。
やっぱりトランシーバーじゃないと間に合わないんですね。
 
 
-ビデオカメラは?
 
ビデオカメラは飛び出していく瞬間。
ジャンプ台の真横に位置してまして、
そこでビデオカメラで選手の映像を撮っているんです。
非常に飛び出しの角度、強さとかっていうものをビデオで残して。
それを選手達見合わせて、
選手たちの飛んでるイメージと合わせて。
「タイミングが強かったね」「重心がちょっとずれてるね」
っていうようなやり取りをする。
必ず必要なビデオカメラなんです。

 

-ビデオカメラについてこだわりは?

ゴルフのスイングと一緒ですね。
非常に動きが速いんですよ。
スーパースローっていってハイスピードカメラ。
ものすごいゆっくりゆっくり、体の動きがわかる。
そのカメラが必要ですよね。
とにかく一瞬なんです。
時速90キロですから、考えてる暇はないんですよ。
それで体の動きもとにかく一瞬です。
一瞬で飛び出して行って、一瞬で操作しなきゃいけない。
とにかく速いんですね。
飛んでる時は分からないっていうか、
どれぐらい落としたかっていうのも簡単でしかわからないので、
それを映像でチェックしながらっていうのが
非常に大事なやり取りになりますよね。

 

リクエスト曲は?

 好きですサッポロ / 森雄二とサザンクロス 

 

やっぱり札幌が好きですので。
カラオケで今でもよく歌います。

 


そんな原田雅彦さんに金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!

『金子の深堀り!』

   

―長野オリンピックの時は大騒ぎでしたね?

もう長野オリンピックに乗り込んだ時は、どの選手も、
日本の選手は誰が飛んだってメダル取れるっていう状況で、
日本が大活躍するっていう状況で長野に乗り込みましたから、
自信満々でしたね。

 

-リレハンメルオリンピックの傷は癒えていた?

考えないようにしていましたね。
そこには数々のまた四年間の色んなドラマがあって。
たくさんの選手があっても代表になれなかった西方もそうですし。
私だけじゃなくて、いろんな思いがあって、
長野に来てるなって思いましたね。

 

-長野オリンピックが始まって、実際はいかがでしたか?

あんなに吹雪になるのは想定外でしたね。
とにかく我々は飛べば好成績が出せる。
メダルを取れるっていうところまでやってきたのに。
天候が悪いのかっていうのはありましたね。
あまりにも酷い天候の悪さだったので。
心のどこかで違う日にやったらどうですか?って言うのも。
4年に一度の大会ですし。オリンピックだし。
条件が揃ったところで決めませんか?っていうのは、
どっか心の中でありましたね。
でも淡々と進んでいきましたよ。
どんどん練習の回が始まって、
2回目は何時からやりますっていう風になってきましたからね。

 

-原田さんの出番の時は特にひどかったようですけど

とにかくその前の選手もライバル達で、
各国を代表してる選手達だったんですよ。
その選手が距離伸びてないなっていうのが、
もう見て分かったんですね。
ノルウェーの選手、ドイツの選手、オーストリアの選手。
これはちょっと難しい状況になったのは覚えてます。
どんどん風が吹いて、雪も降ってくるし。
どうなるんだろうって思いながらのスタートでしたね。
スタートした瞬間、とにかくスキーが滑らなくて。
まずいなーっていうのはよくわかりました。
79 mですよね。さすがにあの各国も距離が出てないとはいえ、
100mそこそこは出てましたからね。
79mっていう結果にはやっぱり周りが驚いていましたね。
耳を疑ったって今でも言われます。

 

-79mという結果になって、
オリンピックの金には届かない運命なのかも、
みたいなことは思わなかったんですか?

いやまぁ思いますよね。
「俺」っていう、私だけの話じゃなくて、団体戦だったので。
大変な状況だなっていう風に思いましたね。
1回目飛び終わった時に。控え室に戻る間にですね、
たくさんの方がやっぱりこう、
心配で声をかけに来るんですけど、何も言わずっていう風な感じで。
たくさんの方にすれ違って励まされたのを覚えてますね。
なんか、空気が…自分でも不思議な世界にいったような。
なんとか自分はとにかく次に取り戻すしかないって思ってましたけど。
とにかく動揺してたかもしれませんね。
リレハンメルの時もそうだったんですけど、
さらに大きなものを、何か感じてたかもしれないですね。

 

-2本目までの間に原田さんに何があったんですか?

日本はその時、4番手でしたからね。
世界中が普通にやれば、
日本が金メダル取るんだって思ってた矢先でしたから。
吹雪のため中断になれば、このままいくとメダルなし。
1回目の成績で競技を決めるとなると。
そっからですよね。テストジャンパーの話になりますが、
日本をメダルなしにしちゃダメだと。
あの日あの時あの人達がお客さんも含めて。
金メダルを取り返すために動き出すんですよね。
テストジャンパーたちが吹雪だっていうのに、
やっぱり覚悟を決めて。

 

-テストジャンパーが一人でも失敗したら中止だった。

彼らにとってスキー人生はまだまだ続きますから。
とにかく金メダルを取るためにって言ってみんなが飛んでくれる。
お客さんもそうですよ。何万人というお客さんも、
今動いたらもう戻って来れないので。
絶対金メダル取るまでここを動かないというようなのを、
お客さんの中から伝わってきて。
とにかくあの日はみんなが金メダルに向かったと思うんですよね。

 

-無事24人のジャンパーが飛んで再開。

控え室で他のメンバーにも励まされました。
「原田さんが気軽に飛べるように俺が飛んでやるからな」って言って。
1番手の岡部選手、2番手の斉藤選手も、
最後の船木選手もそうやって声をかけてくれて、
2回目に向かっていきましたよね。

 

-大きな支えになったと思いますが、
支えきれ無いぐらいの傷を負っていたのでは?

意外とそうでもなくて。
やっぱりたくさんの方のその姿を見て、
だんだん冷静になっていったと思います。
それを受け止めるだけの、考えだけは持ってたんですね。
非常に動揺していましたけど、
あの人があんなにやってくれてるっていうことで冷静になっていった。
やっぱり勇気づけられたのは一番最初に飛んだ岡部選手。
もう飛んだ時点でトップですよ。
次に飛んだ斉藤選手がまた距離を伸ばして。
もうそれがとにかく一番勇気づけられました。
もうこれは大丈夫だと。
なので自分の時はぶっちゃけ条件だけ揃ってくれと祈ってただけです。

 

-条件はどうでした?

やっと思いが伝わったのか、
大丈夫だっていう青信号がその時に出ましたね。

 

-137mの大ジャンプ

気持ち良かったですね。
達成感もあったし正直ホッとしました。
もう立ってられないんですよ。全身の力が抜けちゃって。
いろんなことを言いたいんですけど、
言葉にならないんですよね。
先にいた岡部選手、斉藤選手とかと抱き合ってるっていうか、
僕がなだれかかっているというか。
でもとにかく船木が飛んで、
日本が金メダル取る瞬間だから見たいなって思ってたんですけど、
まわりがうるさくてですね。
「原田さんどうでした。どうでした」って。
感想を聞きに来るんですね。
答えようとするんだけど、言葉にならないし。
船木が飛んでくると、金メダルの瞬間だからっていうことで
「今船木が飛んでくる」「船木頑張れよ」
「船木、船木〜!」っていう「ふなきぃ〜」なんですよ。

 

-100年単位で語り継がれていく物語でしたよね。

本当にもう20年以上経っても、
令和になって時代も変わったのに、
未だに知らない人にも声掛けてもらえるんですよね。
「原田さん良かったね」って言われるんですよ。
本当にあの時の飛行隊は良かったと言われるのは
皆さんの印象に残ってるんだと思います。
日本の皆さんにたくさん関わって、応援してもらった
みんなで取った金メダルなんじゃないかなと思ってます。

 


原田雅彦さんが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?
 

「ガンバッ」

とにかくそれしかないんですよ。それしかないんですよ。
たくさんの方が「ガンバ」って言ってくれるんです。
そこには、たくさんの思いが詰まってるって分かるんですよね。
試合に臨む時に、さぁ勝負だっていう時に、
ゴタゴタ言うよりも「ガンバ」って言ってくれるのが
大変励みになりますからね。
この言葉が大好きですし。
私あの指導の方もやってますけど、
たくさんのことを思いを込めた
「ガンバ」っていうのを今でも続けてますし。
非常に奥の深い一言だなって思ってます。
我々の子供の時は、札幌オリンピックの思い出が
周りにはものすごく残ってて。
20年経って我々が長野の歴史を作った。
そしてまた20年経ちましたから、
札幌、長野を超える歴史を若い人たちが作って欲しいなって。
私はそれを指導者として後押しできることが私の夢でもあります。

 

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