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原田雅彦さんが前を向くために大切にしている言葉

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1998年長野オリンピック
スキージャンプラージヒル団体で
金メダルを獲得した原田雅彦さんです。
 




 原田雅彦さんのプロフィール】

原田雅彦さんは、1968年生まれ、北海道出身。
 中学生の頃から天才ジャンパーと称され、
高校生で世界を相手に戦い始めた。
90年代以降、日の丸飛行隊の中心選手として活躍。
冬季オリンピックには、
92年、アルベールビル、94年、リレハンメル、
98年、長野、2002年、ソルトレイクシティー、
2006年・トリノと、5大会連続で出場。
94年のリレハンメルの団体ラージヒルでは、銀メダル。
そして、98年、長野では、2本目に137mの大ジャンプを決め、
悲願の金メダルを獲得、日本を感動の渦に巻き込んだ。
2006年に現役引退、2015年、全日本スキー連盟理事に就任。
来シーズンからは、雪印メグミルクスキー部の総監督を務める。

  



ジャンプを始めるのはスキーをする人の何割ぐらい?

0.1とかそれぐらいですよ。
ジャンプ怖いですよね。私もそうでした。
ジャンプ少年団みたいなのがあって、
同級生達が飛んでたんですよ。
楽しそうだなって。
飛ぶ瞬間どんな感じなんだろうな〜って
本当にそんな興味本位でジャンプをやらしてくれませんか?
っていうので始まったんですけどね。

 

-恐怖心は?

やっぱりね一番最初に飛ぶときは怖かった。
今でも覚えてますけど、やっぱりあそこから飛び出したら、
いったい何が起こるのかと思って
なかなかスタートが切れなかったの覚えてますね。
半ば押されて「行け!」みたいな感じでスタートしました。
その勢いで飛んだんですよ。あ!飛んだと思いましたよ。
私の感覚は怖かったですけどフワって体が浮いて、
ものすごく気持ちよかったです。
そのジャンプが終わった途端に
「また飛びたい、もっと遠くへ飛びたい」
っていう風にすぐ思いましたもんね。
楽しくてしょうがなくなっちゃったですね。
それぐらいの魅力的な瞬間だったんですね。

 

-他の子供達と何が違っていた?

あっけらかんとした性格がですかね。
スキージャンプに向いてたかなと思います。
あんまり考えこまず、とにかく幼少期の頃の私、
とにかくスキージャンプが楽しくて楽しくてしょうがなかった。
そういうのに巡り会えたっていうのが一番良かったかなと思うんです。
おかげで私も人間としてすごく成長できたので。
今となってはですよ。
今でも好きですジャンプ。

 

-オリンピックを意識したのは?

大人になってからですね。
スキージャンプの歴史の中で、札幌オリンピックとかあって、
非常にこう日本のジャンプってのが低迷していったんですね。
なかなか世界に勝てないっていう風になっていってる中で、
我々がそれ子供の時だったんですよ。
なので、そんなにオリンピックに出ようとか。
そんなこと考えずに。
とにかくお兄ちゃん達に勝ちたいとか、
あの大人のすごい人達に憧れるっていうことしか考えてなかった。

 

-そしたらオリンピックの方から近づいてきた?

低迷を脱出するために、歴史が変わったんですよ。
スキー板を今大きく開くじゃないですか、V字に。
その時には現役選手だったんですが、
それがきっかけとなって、
また日本のジャンプが世界に通用するようになって。
そこからオリンピックを考えられるんじゃないかな
っていう風になったのが1990年ぐらい。
私がまだ二十歳過ぎたぐらいですね。

 

-なぜ Vになった途端に日本が蘇ったんですか?

スキーを開くっていう行為が、我々が今まで練習してきた事の逆。
開く人は寝てる時に足縛っててもいいからそろえなさいって
言われて育ってきてるので。
それを我々がやってのけたので。
指導者も我々が説得して、Vスタイルを完成させてきたんですよね。

 

-初出場した1992年アルベールビルオリンピックはいかがでした?

あのオリンピック以降5回行ったんですけど、一番楽しかったです。
プレッシャーも何もなく。
ただVスタイルで。怖いものなんか何もないですよね。
沢山の有名人もいましたね。
スケート選手の橋本聖子さんですとか。
ものすごく楽しいオリンピックでしたね。

 

-あの頃はまだスキージャンプメダルが期待されてなかった?

全然されてなくてですね。
北海道のローカル局の方と、
新聞社とテレビ局がジャンプ台にいたかな?ぐらいで。
日本の応援団はほとんどいなかったですね。
父親と母親がいて、フランスまできたんだ〜ぐらいで。
すごく楽しいオリンピックでした。

 

 

リクエスト曲は?

 虹と雪のバラード / トワ・エ・モワ 

 
札幌の大倉山とか宮の森競技場が、我々の練習場なんですよね。
そこに行くと必ずこの曲が、もうしつこいぐらいかかってるんですよ。
朝から晩まで。札幌オリンピックの栄光があったので、
お前らも頑張れよというイメージだったと思います。
札幌オリンピックの時は4歳で、
ぜんぜん記憶はないんですけど、それを見て、
日の丸飛行隊を目指したっていう選手達の、
僕らは一番最後ぐらいです。
笠谷幸生さんがコーチをされてて。
「あの笠谷さんなんだなー」っていうのを子供ながらに見たの覚えています。
感動しましたね。

 


そんな原田雅彦さんに金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!

『金子の深堀り!』


1994年のリレハンメルオリンピック、状況は変わっていた?

変わっていましたね。もうたくさんの日本の選手が、
世界で活躍するようになってました。
そしてもうヨーロッパ諸国も全てやっぱりVスタイルを従えて、
選手が距離を伸ばすそういう風になってましたね。
もう今や常識だっていう。そんな風になってました。

 

-大会前の目標は?

もしかしたらメダルが取れるんじゃないか。
どの選手もその勢いだったと思います。

 

―団体ラージヒル始まりましたが、
メダルの色がやばいことになってないか?っていうことになりました?

そうなんですよ。
練習の時、本番が始まってから控室に4人で顔を見合わせた時に、
「我々、金メダルが取れるかも」言葉には出しませんけど、
多分みんな思ったと思います。

 

-競技が始まって上手くいきましたよね。

1回目ですね。
4人とも非常に練習どおり、4人とも、らしく飛びましたよね。
日本の金メダル間違いじゃないっていう風に
どんどん試合が進んでいきましたよね。
すごくかっこ良かったですね。仲間に非常に励まされました。
最後に飛ぶ原田さんにプレッシャーをかけないように、ということで。
みんなができるだけ遠くまで飛んできてる。
非常に私もあのモチベーションが上がったし、
ネガティブな要素が全くなかったですね。

 

-飛んだ時の心境は?

踏み切った時に
「あ、距離が伸びないな」っていうのは感じました。
やはりタイミングが狂ってしまった。
技術的に言えば、ちょっと重心の位置がおかしかった。
そうなったことに気づかなかったですね。
やはり相当なプレッシャーというものがかかっていた。
自分ではいつも通りルーティンを全部やって。
スタート台にも普通に来て、いつもどおりスタートしたはずだったんですけど、
全く気付かないプレッシャーがそこにかかって、
正常ではいられない平常心でいられないっていう風になってきたんだと思います。

 

-着地したときは?

もうどうしようもなかったですね。
図々しくも、やっぱりあの飛び終わって
掲示板で「1」って出ないかなっていう風に思いましたけど、
無残に「2」でしたので、ショックでした。

 

-29年前の出来事で、その4年後には金メダルを取っていますが。
まだその傷は癒えていない?

そうですね。
このことは私がずっと、一生ついていくことなので。
葛西、西方もそうですし。
4年後に岡部と一緒に金メダルを取ったとしてもですね。
ああいった選手達との思いっていうのは今でもですね、
言葉にならないんですけど、心にしまって、
ずっと一生ついていくものなんですね。

  


そんな原田雅彦さんが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?

『努力する者は希望を語り、怠ける者は不満を語る』

スキージャンプってとにかく、前を向いて前を向いていかないと。
スポーツ全般そうですけどね。
愚痴を言ってる暇ないんですよ。
とにかく次へ進んで行かないと。反省を済まして、すぐ前に向かっていく。
そういった姿がスポーツ選手として必要なんだなっていうことも教わりましたから。
不満言ってる場合じゃないですよね。
とにかく前に向かって進んでいく。
そして皆さんに喜んでもらう。
そういったことのために、前に進まなきゃいけない。
希望を持ってなきゃいけない。
希望を実現するのがやっぱり難しいことだなとは感じてます。

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