• Facebook
  • Twitter
  • LINE

渡辺元智さんが横浜高校野球部の選手たちに毎日説いた言葉

  • LINEで送る

今週のゲストは、
高校野球界の名将、
横浜高校野球部元監督の渡辺元智さんです
。 


 


 渡辺元智さんのプロフィール】

渡辺元智さんは、
1944年生まれ、神奈川県足柄上郡松田町出身。
1965年から横浜高校のコーチを務め、68年に監督就任。
教職免許を取得、社会科の教諭になった。
73年の選抜で初出場・初優勝。
98年には、怪物と呼ばれた松坂大輔を擁して春夏連覇を達成。
甲子園では監督として歴代4位タイの通算51勝を挙げ、
優勝は春3度、夏2度を誇る。
2015年夏の神奈川大会を最後に、監督を退任。 
その後、終身名誉監督を経て、
現在は国際大会対策プロジェクトメンバーのほか、
「投手の障害予防に関する有識者会議」のメンバーとして、
高校野球界に尽力している。

  



元々はプロに行きたかったんですよね?

小さい時にね親父が病気で経済的にも、
高校で野球をやるって難しかった状況なんですけども、
お袋の妹の家に養子に行って野球ができる環境になりました。
それでまっしぐらにプロへと頑張りました。やり遂げなきゃいかんと。
自分としては高校野球ができるという喜びの中で、
どんな環境でもいいと。
ところが3年になって大学から声がかかったんですよ。
ちょっと遠回りするけどいいわって夢が膨らんだ。
ところが1年目で挫折ですね。肩にメスが入ってるんですけど、
神経に軟骨が密着した状態。手術しても取れないんです。
それで自暴自棄に陥って。
野球やってる仲間のとこにいたくない、
渡辺の家に養子にまで行って学費を出してもらったということもありますし、
遠くへ逃げたいと。
千葉に行って、ブルドーザー修理工場に行ったんですね。
そこでなんとか生きてかなきゃいけない。
真面目に取り組んでたんですが、
やっぱり仕事が終わればやっぱり野球のことが蘇ってくるんですね。

 

-そこから高校野球へどうつながるんですか?

たまたま私の3年間お世話になった監督が事情で辞めざるを得なくなった。
そして誰にしようかってなった時に、私に白羽の矢がたった。
高校時代、野球一筋で真面目にやってたことを思い出してくれたんでしょうね。
実は、工場の中でキャッチボールはやってたんですよね。
夢を捨てないでかすかにやってたことが、
神様に通じたんじゃないのかなと思ってね。

 

-声がかかった時のお気持ちは?

「お願いします!」って飛びつくように。
その時にこういう仕事もあるんだなと。
自分が野球できないけども、教えるっていう事がねあるんだなって。
そこで初めて気がついたんですよ。
奈落の底に落とされた1年間ぐらいの千葉での生活でしたけど、まさに青天の霹靂でしたね。

 

-横浜へ帰ってきていかがでしたか?

自分の後輩ですよ。弟みたいなもんでしょ。
私は比較的真面目にやってましたら、
高校に入った瞬間ですねその後輩たちに山に連れて行かれて
「生意気だ、調子に乗んなよ」と。
たまたま千葉で生活してた環境が少しは役に立ったっていうとおかしいですけど、
怯まずに彼らに向かって行ったんです。
それで「覚えてろよ」って。
それから怯んじゃ行かんってことでね。
でも、プロ野球の選手になりたいという夢が消えて、
今度は日本一になりたいという夢に変わったんです。

 

-当時の横浜高校は日本一どころか神奈川ナンバーワンも難しかったのでは?

たまたま私が卒業してから、厳しい監督のもとに甲子園に行ってるんです。
その下地ができてたってこともありますから、
でもさらにそのやんちゃの選手たちがいましたから、
どうやって対応したらいいかってこと。野球ができない。
どちらかと生活指導の方が大変ですけど、
そこにいきなり監督を私にやらせても難しいからっていうことで、
高橋輝彦さんという素晴らしい監督さんがおりまして、
専修大学の黄金時代を築いた形なんですね。
その方が3年間監督やって「勉強しなさい」っていうことですね。
それがある程度は良かったかなと。
いきなりそのまま監督をやってたら大変だったと思って。
コーチを経て監督になりましたから。

 

リクエスト曲は?

 青い山脈  / 藤山一郎 

親が結核で一緒に生活できなかったときに、
非常に寂しい思いをしてました。
その後にね戦後映画を見るきっかけになった時に、
こんな明るい歌があるのかと。
それからこの青い山脈でことあるごとに映画を見たりね。
そして歌に感銘を受けてよく聞いたものですね。
本当に人と会うのが嫌で、話も下手だし。
ほとんど人との会話も少なかったので。
この明るい歌は私にとっては非常に明るい兆しが見えてきた時の歌ですね。

 


そんな渡辺元智さんに金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!

『金子の深堀り!』


1年生の頃の松坂大輔投手の印象は?

ボールはものすごく速かったんですよ。
ですけどもコントロールはない。
そしてバッティングが素晴らしい。
あと意外と性格的に「サボりの松」って言われてましたから、
そういう面があったかもしれないですね。
僕らの前では一生懸命です。くよくよしないタイプと言うんですかね。
すごいのが入ってきたなという感覚よりは、
どちらかというと周りの選手にいい選手が多くて、
1年目の夏はスタンドで見ている選手でした。
何といってもやっぱりコントロールがなかった。
ただし甲子園の雰囲気を味わせたいっていうことで帯同させたんですね。
スタンドで見てて彼は相当思うこと多かったと思うんですね。
僕らもピッチャーにさせたいと思いつつも、
バッティングすごいからバッティングかなと思いながら。
そうやって彼も甲子園を見ててピッチャーがやりたいと。
ただなかなかストライクが入らない。
盟友の小倉がねノックで鍛えて、私の方はブルペンでボールの玉当て。
あるいは緩いボールを放って、その緩い変化球のフォームでストレートを放るとかね。
あらゆることをやってコントロールが良くなりました。
1年生から秋にかけて良くなってきましたね。

 

-怪物になったのはいつから?

怪物になるのは2年生の秋の大会から。すごい力を発揮する。
松坂がそこまで努力したっていうことの中では、
2年生の夏の準決勝で横浜商業に大暴投で負けた時。
彼は号泣ですよ。立ち上がれないくらい泣いてましたね。
オール2年生。3年生が一人だけだったんですけどほとんどオール2年生のチーム。
甲子園は間違いないと言われてたんですけども、
そのたった一つの暴投が甲子園への道を阻んだんですよね。

 

-それが松坂投手にとって高校生活最後の負けだった。

そこから新チームになって地区予選がスタートした後から
公式戦44連勝なんですね。
怪物という異名をとったのは秋の神宮大会。
それまでは「俺が俺が」って結構プライドも強くて。
でも悪いなりになんとかなってしまってたんですよ。
その辺りから彼は「one for all」という言葉を残した。
「一人はみんなのために」。
松坂の時にはやっぱり「ワンチーム」
「人生の勝利者目指せ」「仲間を大事にしよう」とか、
そういう格言を多くしましたよ。
  


そんな渡辺元智さんが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?

『目標がその日その日を支配する』

自分が高校時代にね感銘を受けた言葉です。
それはまあ一つの詩から抜粋した最後のところですけど、
それは「第一歩」という詩なんですね、
大正時代の思想家、後藤静香さんの詩なんですけど、
うちの創立者、私たちの校長さんですけど、
事あるごとにその詩を朝礼で披露してた。
『第一歩』
十里の旅の第一歩 百里の旅の第一歩 同じ一歩でも覚悟がちがう。
三笠山にのぼる第一歩、富士山にのぼる第一歩、
同じ一歩でも覚悟がちがう。どこまで行くつもりか、
どこまで登るつもりか、目標がその日その日を支配する
一番最後を抜粋して生徒たちにミーティングがあるときに書いて、
こういう意味で言ってるんだろうと。
コツコツコツコツ重ねてかなければだめだと。
目標がなければ何を具体的にやっていったらいいのか?
頭の片隅に残ってればいいってことで、毎日嫌われても言ってました。
それが今新しい監督になっても引き継がれてるみたいで。
それがまたの松坂たちにも好影響を与えたと思うんですね。

聖教オンライン

ニッポン放送の番組一覧

他の番組を見る >