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WEリーグ 初代チェア・岡島喜久子さんが大事にしているビル・ゲイツの言葉

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今週のゲストは、
日本初の女子プロサッカーリーグ「WEリーグ」の
初代チェア・岡島喜久子さんです。

 


 岡島喜久子さんのプロフィール】

岡島喜久子(おかじま きくこ)さんは、
1958年、東京都生まれ。
中学時代からサッカーを始め、
高校からは、1972年に日本初の女性クラブチームとして結成された
東京のFCジンナンに加入。
77年に台湾で開催された、
第2回アジア女子選手権にも参加。
早稲田大学を卒業後は、外資系銀行に就職、
およそ38年間、日米の金融業界を渡り歩いた。
その後、日本女子サッカー連盟の初代理事メンバーや事務局長を歴任、
今年の秋に開幕する日本初の女子プロサッカーリーグ、
WEリーグの初代チェアを務める。

  



-な
ぜサッカーを始めたんですか?

私がすごく覚えてるのは、中学校の2階から校庭で休み時間に、
友達の男の子たちがサッカーをしてるのを見て、
すごく面白そうだと思ったのがきっかけなんですね。
私、小学校・中学校が同じというか東京学芸大学附属竹早中学校なんですよ。
高校も学芸大学附属なんですが。
何か聞いスポーツ得意だったんですが、ドッジボールが強かったんですよ。
ドッジボールで一緒にやってた男の子たちが校庭でサッカーしてるので、
これなら私もできるなと思ってサッカー部に入れてもらったというのが初めです。

 

-当時プロリーグはご覧になってましたか?

三菱ダイヤモンドサッカーは、すごく良く観ていたのは覚えているんですが、
一番印象にあるのは、ヨハン・クライフの時の74年ワールドカップの決勝戦で、
ゲルト・ミュラーが半分倒れながらシュートしたのをすごくよく覚えています。

 

-基本的にはその時代だとイングランドのファン?

そうです。だからジョージ・ベストとか好きでした。

 

-サッカー部には入ったんですか?

もちろん入りました!
マネージャーで入れてもらって、
練習だけさせてもらっていたという感じで。
当時としては練習させてくれた顧問の先生も偉いと思うんですけど。

 

-子供の頃はどんな選手だったんですか?

右のウイングから左のウイング、あと下がり気味のハーフ、
今でいうボランチ。
活動量が多いタイプの選手でした。
読むタイプの選手でした。
ドリブルで持っていくというよりはスルーパスを狙う。
コーナーキックを蹴る、フリーキックを蹴る選手でしたね。

 

-憧れの選手は?

ジョージ・ベストだったんですよ。
後は日本の選手だと、高校サッカーがすごく好きで。
高校の時に帝京高校と対戦しているんです。
ベスト8まで行ったんですよ。
帝京高校の練習まで見に行ったりしてて。
その時、年間120〜150試合見てました。
国体とか高校選手権とかずっと朝から見ているというタイプで。
高校三年の時に浦和南が決勝で優勝した試合、
長居競技場(現:ヤンマースタジアム長居)だったんですけど、
大阪まで行って見てましたね。
その試合のスコアまでつけたりして(笑)

 

-大学生に入った頃は「見るサッカー」「やるサッカー」の重心はどっち?

もちろん「やるサッカー」だったんですけど、
ただ1977年にアジア大会。台湾での国際大会に初めて出場しました。
その時、日本では女子は登録が認められてなくて、
サッカー協会は黙認の形。
胸には日の丸がつけられず袖に日の丸を付けていきました。
行ってみたら、香港、シンガポール、タイって代表チームが来ていて。
「これは代表チームを作らなきゃ」ってすごく思ったんですよね。
代表チームを作るには登録ができないといけない、
登録をするには女子連盟を作らなきゃいけないっていうことで、
大学四年間はサッカー協会でバイトをしてました。
戦略的に中に入ってサッカー協会の人と
仲良くならなきゃって思ったんですよね。
だから選手をやりながら、サッカー協会でもバイトすることで、
組織を作っていくということもやってましたね。

 

-大学を卒業後は土曜日が休みということで外資系を選んだ?

初めはサッカーを仕事にしたいという気持ちがあって、
「PUMA」とか、「adidas」とかを考えたんです。
ただそうすると、販売促進ですから
チームについて必ず土日は試合に行かなきゃいけないんですよ。
これはダメだと、自分の試合に出れない、自分の練習にいけないと。
色々考えたところ、私は大学の時、
商学部で一年留学をしていたので英語ができたんです。
当時、日本の銀行は土曜日に営業してました。
外資系だと一か月に1回、それも12時とか11時まで行けば良かっただけだったんです。

 

リクエスト曲は?

 ヒカリアレ / BURNOUT SYNDROMES 

私は「ハイキュー!!」というマンガが大好きで、
その中でも一番好きなアニメのテーマ曲「ヒカリアレ」をお願いします。
ジャンプでずっと連載をしていたバレーボールのマンガで、
アニメ放映は今もまだ続いています。
歌詞もいいし、涙が出てきちゃうくらい感動する曲なんです。

 


そんな岡島喜久子さんに金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!

『金子の深堀り!』


大学を卒業後、外資系の会社ではどんな仕事を?

1年目は信用状のアドバイス。
日本の企業と海外の企業の貿易に関わる仕事ですね。
その
1年目が終わって、審査の仕事、
銀行は貸し付けがやはりとても一番大きな業務なので、
そちらに行きたいという思いがあって、アメリカ人の上司にアピールをして、
ニューヨークに研修に出してもらいました。
13ヶ月ですね、審査のスキルを学ぶアカウンティング会計学から
コーポレートファイナンスとか、ケーススタディを経て、
試験があり、一人前にお金を稼ぐ審査の仕事ができるところまでの
クレジットトレーニングっていうトレーニングをしていました。

 

サッカーをやる余裕はあったんですか?

もちろんずっと続けてました。
私はとくに走るポジションだったので、
就職先の銀行は丸の内にありまして、
昼間毎日昼休みを皇居一周してました。
会社の男子トイレだけにシャワーが付いてたんですよ。
男子トイレに自分で作ったサインをつけて、
「今女性がシャワー使ってます、
15分間お待ちください」
毎日シャワーを浴びてました。

 

サッカーに人生捧げるぐらいどっぷりなのに
 今お仕事の話ししてる時も楽しそうですね。

そうですね、楽しかったですでも。
1989年が日本株のピークで、その89年にシンガポールに転勤になりました。
それからどんどん下がっていったんですね。
これは
10年、日本株だめだと。まぁ10年じゃなくて30年だったんですけど。
それでその時付き合っていたアメリカ人の夫で、
マレーシアとインドネシアに住んでたんですけど、
結婚することにして結婚退職をしました。
そこから夫の出身地であるボルチモアに移って
30年目というところです。

 

結婚後はビジネスの世界に戻るとは考えていた?

もちろん。
ボルチモアに移って
1週間で仕事が実は決まってしまい。
夫のお姉さんの紹介で、ボルチモアにあった証券会社
2社、
夫の友人の紹介で、銀行
1社に、
ポンポンと引っ越し荷物をとく間ぐらいに面接が決まり、
2週間目ぐらいから働いてしまいましたね。

 

アメリカでサッカーは?

もちろんプレイはしてました。
男女混合のリーグとかあるんですね。
男子が
5人、女子が5人か。だから5人、6人。
それはすごく良かったですね。
女子
2人とかだと、ボールが回ってこないんですよ。
でも
6人とかだと、やってる人が上手いと、
メキシコとかラテン系の人は上手いんですよ。
そうすると私をちゃんと使ってくれる。
って言うのがあってすごく面白かったですね。
もちろん女子だけのリーグにも入ってました。

 


そんな岡島喜久子さんが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?

『Life is not fair get used to it.』です

「人生っていうのは皆に平等じゃないんだよ、
でもそれに慣れることが必要だ」っていう意味なんです。
結局私は、これを「言い訳をしない」意味に取ってるんです。
ビル・ゲイツの言葉なんですけれども、
ビル・ゲイツってすごくいい言葉を色々残してます。
特に「失敗から学ぶことが成功するよりずっと大切」という言葉もあるんですが、
とにかく言い訳しないって、私はすごく大切なと思うんです。
自分の境遇とかを嘆くんではなく、前に進むという意味に取っています。

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