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鈴木桂治さんが大切にしている国士館中学・柔道部監督から送られた言葉

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今週のゲストは、
2004年アテネオリンピック
柔道男子100キロ超級で金メダルを獲得した鈴木桂治さんです。 


 鈴木桂治さんのプロフィール】

鈴木桂治さんは、1980年生まれ、茨城県出身。
お兄さんの影響で3歳から柔道教室に通い、
小学校卒業後は、国士館中、高校、大学に進学。
高校3年の時には、インターハイで優勝、
個人戦で日本一の座を勝ち取った初めての大会となった。
世界選手権では2003年に無差別級、2005年に100キロ級で優勝、
そして、2004年のアテネオリンピック100キロ超級で金メダルに輝き、
世界大会で3階級制覇。
2012年から母校の国士舘大学柔道部の監督と、
全日本男子重量級のコーチを務める中、
2019年6月には、「全日本実業団対抗大会」で7年ぶりに
実戦復帰して大きな話題となった。
試合後、引退を宣言。
去年10月からは国士舘大学柔道部の総監督に就任。

  



3歳から柔道を始めたということは柔道一筋?

僕は走るのも好きですし、運動は今でも好きですので、
そんなに柔道馬鹿っていう考えも好きじゃないので、
いろんなことを取り入れて。
自分の親も柔道やったことがないんですよ。
なので柔道だけっていう考えよりは、
「これやりたい、じゃあやってみよう」みたいな。
最終的に戻ってくるっていうような感じでしたね。
小学校は部活があるんですけど、バスケ部に入ってましたし。

 

―意外ですね。

男子バスケ部というのがなかったので、バスケ部を作って。
友達5、6人でバスケ部を作って下さいってお願いして、
男子バスケ部を作ってもらいました。
柔道ももちろん継続してましたし、
柔道が1番メインなんですけども、
小学校の放課後とかはバスケやったり、サッカーやったりしてましたね。

 

―中学校で親元を離れるという決断はすごいですね。

きっかけは、平成の三四郎と呼ばれた古賀さんとか吉田秀彦さんらが出た、
柔道私塾講道学舎。
今の選手で言うとリオ・オリンピックで優勝した
大野翔平選手が出たところなんです。
そこから声をかけてもらっていたんです。
そこで親父に「東京で柔道をやりたい」と言ったら、
当時のウチの道場は僕ともう一人声をかけられた選手がいて、
「俺も行こう」って言ったら、
「いや同じ道場の子二人で行っても面白くねえだろ」と。
要するに甘えがでる。
そしたら国士舘を探してくれて。
練習に行ってその時に挨拶をして、
そこから国士舘に行くという流れができたんですけど。

 

―練習を見ていかがでしたか?

親父と最初に行った時に、寮の前に車を停めたんですけど、
寮から坊主頭の高校生、中学生が出てくるんですよ。
柔道家では“あるある”なんですけど帯に柔道着を結んで持って歩くんですよ。
そうやってサンダルで出てくる先輩たちを見て「なんだここ」と。
先生方に言っても「お前国士舘に行くのか?」みたいな。
当時の国士舘って結構すごかったので(笑)

 

―それがどこから化けはじめるんですか?

きっかけのひとつが、中学3年生の時にすごく細くて、
70キロ台と80 キロ前半だったんですけど。
ひざの半月板を怪我して2週間入院したんですけど、
暇だったから食べて、食べて10キロぐらい太ったんですよ。
リハビリ期間にウェイトトレーニングを高校生の先輩と一緒にやって。
その辺から力強くなれたなって思います。
その休んだ期間が体の成長ですよね。
肉体的な成長にすごく有効的な時間だったなと思います。

 

―高校に進んだ時は?

高校1年生から団体戦の選手に選んでもらって。
団体戦って5人なんですけども、
約30名ちょっとの部員の中でこの5人に選んでもらったことは、
非常に自分の意識の向上も高まりましたし、
足りないこともどんどん見つけるようになりましたし。
あとは3年生と同じことをやらなきゃならないわけなので
肉体的な苦痛もありましたね。

 

リクエスト曲は?

 DOOR / コブクロ 

 

色んな経験をして、オリンピック優勝したりとか、
いろんな方に応援してもらったり、
褒め称えてもらった時期もあったわけで。
やっぱりなくせないんですよね。
あの栄光とか、あの気持ちをもう1回味わいたいから頑張るわけで。
そういう歌と僕は捉えてて。
自分が開けるドアっていうのは、
栄光に進む方を選ぶよねっていうような。
この歌を聞くといつもその時の自分を思い出して、
常に自分が選ぶ道を誤っちゃダメだなっていう風に思います。


そんな鈴木桂治さんに金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!

『金子の深堀り!』


2004年アテネオリンピックの出場が決まった時の心境は?

やっぱりオリンピックの代表というものは、
ずっと目標でしたし、小学校の卒業文集にも書いたくらいなので。
本来、100キロ級での出場を挑戦してたので、
そこの目標じゃない階級だったということに関しては、
悔しい思いはありました。
代表を取った!という風には最初は思いませんでしたね。
その後、これで俺負けたらもうないなという風に思ってました。
ここでの鈴木を試されてるんだって。
この階級に対するリスペクトをしないと、
このオリンピックって舞台には立つことはできても、
勝つことはできないなという風には、どっかで気持ちは切り替わりましたね。

 

―大会前の下馬評はどんな感じでしたっけ?

よく大会前に雑誌が出るじゃないですか?
20%でした僕。誰も知らなかったと思います。
野村忠宏さんとか、井上康生さんとかは
100%、90%とかでしたね。

 

―迎えた決勝戦の心境は?

オリンピックの金メダリストになれる権利って
4年に1回しかなくて。
かつ日本の代表選考を経た上での挑戦なので、
自分が納得した階級じゃなかったとしても、
ここはオリンピックチャンピオンなんだよってことですよね。
自分自身に対して。

 

―決勝まで行ってもまだ100キロ級じゃないっていう気持ちはゼロじゃない?

ゼロになってないです。
今でもなってないですね、やっぱり。
これはならないと思います。
100キロ級でオリンピックのチャンピオンになってないので。
100キロ超級=世界一強いんだって言ってもらえるんで、
それはすごく嬉しいんですけど、
自分が挑戦したところの代表じゃない金メダルじゃないってことは、
なくならないですね。

 

―そこまで100キロ級がすごいという気持ちはどこにあるんですか?

自分は井上康生という、
今の日本代表監督に対しての敵意がものすごくあったんですよ。
井上康生に勝って、世界に挑戦するっていう順序を僕はずっと持ってて。
井上康生が出ない国際大会に出て優勝しても、
「いやいや井上康生がいるからね」って周りも思いますし、
自分も思うんですよ。なのでどっかで認められてないわけですよ。
この思いはずっと持ってて。それがなかなか叶わなかったんですよね。
アテネの100キロ級の代表選考会でも井上康生と試合する前に、
井上康生さんのお兄さんに負けたんですよ。
だから兄弟で俺を潰しに来たかみたいな(笑)
事実上、100キロ級の代表は無くなってしまって。
という納得できないことがたくさんあって、
これを取ったからチャラにしようっていう風には全く思えなくて。
やっぱり認められてないと言うか。
認めてもらいたいんだけど結果として残ってないよねってなっちゃうんですよね。

 

―現役の頃は井上康生さんとどういう風に接していたんですか?

よく見てました。
この人どういうことすんのかな?って。
もちろん仲良く話もしましたし、お酒も飲んだりしますけど、
でも練習中とかはどういう練習してるのかな?
どういうトレーニングしてんのかな?とか。
どういうもん食ってんのかな?とか。
それぐらい僕は本当に執着してました井上康生という選手に。
 


そんな鈴木桂治さんが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?

『剛毅朴訥』です

 

これは国士舘中学に入学した時に、当時の中学の柔道部の監督が、
卒業生に送ってた言葉なんですけど。
要するに「強く謙虚に」って当たり前の言葉なんですけど、
謙虚でないとやっぱり強くなれないと。
柔道は人から教えてもらうものじゃないですか。
または人からの協力がないと柔道というのは成長できないと。
謙虚な人間にしかそういうチャンスは巡ってこないし、
謙虚な人間にそういう機会はたくさん訪れるということを言われてまして。
強くなればなるほどそういった気持ちが薄れて行くと思いきや、
僕はこの言ってることが結果が残るようになってきてから
凄く理解できてきたんですよね。
自分の周りもそうですし、チャンピオンだって強い人だって
目で見られると協力を得れないんですよね。
自分が強くなるために貪欲にならないと、
なかなか強くなるきっかけってのは自分には訪れないんですよね。
貪欲になるってことは少なからず謙虚になったりとか、
人に何かを求める時、お願いする時とか、
そういうことがないとさらに
自分の強さを上げることはできないということが、
当時柔道家としてってことで卒業生に送ってて。
色紙に一人一人書いて送ってくれるんですけど、
今これは国士舘道場に飾ってあります。

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