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レスリング元日本代表・太田章さんが通訳の女性から学んだ言葉

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今週のゲストは、
レスリングの元日本代表で、
ロサンゼルスとソウル・オリンピックの2大会連続で
銀メダルに輝いた太田章さんです
 

 


 太田章さんのプロフィール】

 

太田章さんは、1957年、秋田県のお生まれ。
秋田商業高校時代からレスリングを始め、
早稲田大学在学中に全日本大学選手権3連覇。
80年から全日本選手権で計8回優勝するなど無類の強さを発揮。
80年のモスクワ・オリンピックでは代表に選ばれたが、
日本はボイコットで参加はならず。
84年のロサンゼルス・オリンピック、
フリースタイル90㎏級で銀メダルを獲得。重量級初の日本人メダリストとった。
88年のソウル・オリンピックで、2大会連続の銀メダル獲得。
92年のバルセロナ・オリンピックでも代表となった。
99年には、世界レスリングマスターズ選手権で金メダル。
現在は、早稲田大学スポーツ科学部教授を務め、
社会人相手にレスリングやフィットネス、体力づくりなどの指導。

  



中学時代は柔道をしていた?

柔道で全県大会を優勝して、やっぱり秋田の高校に行くならば、
秋田で全国1位に一番近いものは何かっていう風に考えてみて。
やる以上は日本一になりたいと思ったんですね。
秋田は過疎地帯ですけどスポーツは非常に盛んで。
3つだけ日本一になれるチャンスがあるんですね。
バスケットの能代工業、ラグビーの秋田工業、
そしてレスリングの秋田商業だったんです。
僕は格闘技をやってたんで、やるならレスリングだろうと。
柔道もガンガン力で行くタイプじゃなくて、技のタイプだったので、
それがレスリングに活かせるんじゃないかなと思いましたね。

 

―レスリングは、ど素人なわけですよね?

そうです、そうです。
でもレスリング転向して2ヶ月で秋田県大会優勝しちゃいましたから。

 

―秋田商業のレベルは?

練習が非常に厳しかったです。ものすごい厳しいですね。
僕が入った直後にその4ヶ月後かな。
インターハイで団体優勝しましたので。
私もレギュラーで出て。ちょうど一番ピークの時に1年生として入って、
すごい練習をしてそのままの日本一になれちゃいましたね。

 

―体格差は問題なかった?

僕は体は中学時代、柔道でも十分大きくて。
最重量級だったんですよ。
75 kg 以上級で私が最後に出て勝って優勝っていう形になりましたね。

 

―なぜ大学は、レスリングが当時弱かった早稲田へ?

これはね同期だった、マラソンの瀬古利彦も、
サッカーの岡田武史も、僕らの同期はみんな「青春の門」を読んで、
五木寛之さんのせいでみんな早稲田に希望していましたね。
「門のない大学」っていうフレーズにすごくあこがれを持ちました。

 

―早稲田大学レスリング部はいかがでした?

一部の先輩は高校時代もやっていて強い先輩もいたんですけど、
ほとんどの部員は素人で。
試合に行ってもびっくりするんですけど、
2部だったんでフェイントが効かないんですよ。
タックル入るフリすると、必ず腰を引いたりディフェンスするはずなんですが、
それをしないんですよ。
どうなってんだと思ったんですけどでも。
でも圧倒的な勢いでフォールしていきましたけどね。

 

―80年のモスクワ・オリンピックを意識したのは?

4年を卒業した年にモスクワがあったんですけど、
3年を過ぎたあたりから就職はしない方がいいんじゃないかなと思い始めて。
一応単位は全部取ってたんですけど、
卒論だけ書いて出さないってことにすればいわば就職浪人みたいな。
時間割が真っ白な5年生になりまして、モスクワを目指そうと。

 

―モスクワ・オリンピックが消滅しそうになった。

頼む、何とか行かせてくれと思いましたよ。
ただ同期の瀬古利彦なんかは、やるのかやらないか早く決めろと。
やらないなら次の目標を立てると。
優勝候補ですから、そういう風な言い方をしてましてね。
レスリングは4年に1度しか注目を浴びないスポーツだったので、
オリンピックが無くなったら8年に1度のオリンピックになっちゃうと。
4年後の保証はないと。これがだめなら消えるかもしれないと思いましたね。

 

リクエスト曲は?

 恋はリズムにのせて / アンディ・ウィリアムス 

 

2年前に母を失ったんですけども、母がものすごい好きで。
僕が小学校時代に洋楽や洋画をどんどん見に行きなさい、
どんだけ聴きなさいっていう教育をしてて。
特に、このアンディ・ウィリアムスの「恋はリズムにのせて」はビートがよくて、
スピード感があって大好きな曲なんで。とにかく母は感性だっていう感じだったですね。


そんな太田章さんに金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!

『金子の深堀り!』

 
モスクワ・オリンピックから気持ちを切り替えたのは?

翌年の81年の世界選手権が当時のユーゴスラビアで行われて。
代表としてその後も81年〜83年と3年間出るんですけど、
このまま怪我がなければ、
ロスも27歳でしたけど出られるかもしれないと思い始めました。
ただ、若い選手が急に出てくる場合もあるので、
安心はしてられないんですけど。でもやっぱり自信はあったと思います。
82年の世界選手権90キロ級にあげてた私が、
もう一度82キロに落とした時期があって。
その時の世界選手権が4位まで行ったよ。
もう少しでメダルにいけるかもしれない。
その時は世界近いぞと思いましたね。減量は本当にきつかったですね(笑)

 

―そして84年ロサンゼルス・オリンピック。初めてのオリンピックはいかがでした?

まだインターネットがない時代ですからね、
でもそこでもいろんなテレビ画面がぐるぐるまわっていて、
そこに試合結果がずっと流れてたんですよ。
今まではテレビ・ラジオでしか分からない。
AKIRA JAPANって出てくると、アクセスすると僕にメールがきてたんですよ。
ビックリしました。こんなことできるのって。
アメリカの選手から僕に「頑張れよ」みたいなメールが届いてて。
「お前もな」って返したんですけどね。

 

―ずいぶん進んでますね。

しかも全米中のフィジカルセラピーっていう人たちが、
ボランティアで選手の足・膝のテーピングを全部タダで巻いてくれるんですよ。
僕は両膝とも悪かったんで、
行くとキッチリカッチリ膝のテーピングをしてくれるし。
試合前に行くたびにやってくれるんですけど、
最後の頃に決勝戦で相手がアメリカの日は、
急にテーピングが緩くなりましたね(笑)
やっぱりそれも愛国心なんですよねアメリカの。

 

―プレッシャーは?

この試合で勝てば決勝にいけるなって時は少し緊張しました。
相手も同じですから。僕は試合の前に必ず四股を踏むんです。
すると相手は嫌な顔するんです。準決勝も僕の四股ですごくビビってました。
一本がスムーズに決まって。ひょっとして間違ったら優勝すると思うじゃないですか、
そういう気持ちでいっちゃだめなんですね。
決勝戦はあがりましたね。

 


そんな太田章さんが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?

『keep busy』です

 

二十歳の時ワールドカップって試合に出て、
日本チームの通訳をやってくれた、おばあちゃんがいたんです。
いろんなボランティアをやりながら我々のチームを通訳してくれて。
いつも口癖が「keep busy」って言ってたんですよ。
それどういう意味?と言ったら、私はあなた達より残りの人生短いの。
もっと残りの人生楽しまなくちゃ、
時間を無駄にしちゃ駄目って言ってすごい忙しくしてたんです。
それを聞いて「ほんとだよな。時間は有限だよなぁ」と思って
それが自分のモットーにしています。

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