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藤川球児さんが現役引退の際に浮かんだ言葉

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今週のゲストは、
今シーズン限りで現役を引退された
元・阪神タイガースの藤川球児さんです。


 藤川球児さのプロフィール】

藤川球児さんは、1980年高知県生まれ。
高知商業高校から1998年ドラフト1位で阪神に入団。
2005年、阪神最強の中継ぎ陣、
JFKの一角として80試合に登板して優勝に貢献すると、
2006年のシーズン途中からクローザーに定着。
「火の玉ストレート」と呼ばれる、浮き上がるような速球を武器に、
 絶対的守護神として活躍されました。
2007年には日本記録となる46セーブをマーク。
2013年には海を渡り、シカゴ・カブスへ移籍。
けがに苦しみ、2015年、四国アイランドリーグplusの
高知ファイティングドッグスで日本球界に復帰、
2016年に阪神に戻り、昨シーズンは再びクローザーを務めた。
現役22年間で日米通算245セーブを挙げ、今シーズン限りで引退。

   


-引退試合の前日に「泣かないですよ」と話してました。

そうですね。やっぱり自分の中での勝負っていうのは現役引退を決めた、
会見した9月の時点で勝負師としての藤川球児は終わったと、
それから1ヶ月間で2軍で調整して。それから2軍の選手たちとか、
スタッフ達には「ここではこういう力を磨く場所なんだ」ということを伝えて。
1軍というのはそれを表現する舞台なんですけれど、
自分としてはこの最後の1ヶ月間は、今まで現役として22年間やってきたことを
皆さんとともに精算しに行くというか。
もう次のステップを踏みたかったんで、そのための1ヶ月にしたいということで、
思い出を徐々にみんなで思い出しながら、現役を終わりたいという。
おぼろげながら頭にイメージがあって。
気付けば、すごくいい形でリーグ全体からも送り出してもらったなという感じですよね。

 

―阪神のスター選手が引退する時に阪神ファンだけでなく、
 他のチームも温かく送りだしていました。

なんでですかね。
その時、自分がグラウンドに出ている状況っていうのを自然に表現するというか。
作りにいかない。自分の人生で何か狙うとだいたい外すよっていうのがあって。
やっぱり自然体で。
周りの方達の空気を読んで、いかに自分がどうするべきかっていうのは
考えたつもりだったんで。
あとはまぁ日本代表とかオールスターでも沢山出てきたので、
阪神タイガースの枠を少し飛び越えたところもあったと思うんですよね。
まあ独立リーグも行ったし、アメリカにも行ったし。
たくさんの思い出を皆さんと共有できて。
僕としても「藤川球児」という野球選手を上手に送り出したかったので、
それができたかなと考えると、
本当にいい時間を皆さんにありがとうございますとお伝えしたいですね。

 

―巨人・原監督まで藤川球児さんをうまく送り出そうとしていました。
 代打・坂本と聞いた時は?

いや、自分は何も感じなかったかな。感情は自分にはないんですよね。
グラウンドに出てる時の自分というのは。
周りの方が、スタンドないしベンチにいる選手たちが、
どういう風に感じるか自分には計り知れないんですけど。
やっぱりいつもフレッシュな気持ちでマウンドに立ってるので。
「どういう対戦になるのかな」ぐらいしか考えないんですよね。
あくまであそこってグラウンドで。
マウンドとバッターボックスの真剣勝負なので。
そこに関しては何の感情も正直湧かないんですね。そこはプロなんで。
引退する前までも「今日は家族が見に来てくれてるんです」
なんて一言も言ったことないし。
今日しか来れないお客さんとか、もしかしたら今日で球場に来られるチャンスが
人生で最後になるかもしれないとか。たくさんの方がいるわけで。
それを自分が選ぶことは絶対しないと。
自分はあくまで表現者であるべきというのがあったので。
あとから自分の中で、そういうのを考えると、だから感情が出てこなかったと言うか。

 

―最後のバッターとの対決が終わったときは?

無事3人で終われて良かったなーっていうのと、
良い形で終われたなーっていうので、本当に普段の試合と何も変わらないですね(笑)
やっぱり見てる方にいいもの見てもらいたいと。
だから150キロを狙いたかったし、自分の最高のボールを投げ込みたい。
それを見に来てくれる人がいるから、後はその人達が判断することなんで。
自分で何かを判断したりとかは、全く本当にないですね。

 

―引退のセレモニーで私が度肝をぬかれたのは、中学時代の作文でした。

あれは子供たちに伝えたかったんですよね。
夢を持つ事とか、希望を持つこと。
夢と希望を持って自分自身が学生の時に公言できなかったんで。
だけど公言することによって、逃げ道なくして。
嫌な時もあったけれども、
ただこうやってやればどんなに紆余曲折あって
遠回りしたと周りが判断しても結局ゴールしちゃえば一本の線になって、
全てが答えになって。自分のことを伝えたかったんではなくて、
中学生でも夢を持って、それを公言すればどこかでゴールしたいという自分が出て、
上手くいくケースもここに一つありますよということを、
提供したかったという。
それだけですね。最後の納め方も肝心じゃないですか。
引退するその日の戦い方。メッセージも含めて。というのも重要だったんで。
やっぱりそこに対する自分の人間性をそこに持っていけたということがあるんで、
うまくいったなと思いますね。

 

リクエスト曲は?

 Myself  / 長渕剛 

アメリカで怪我して、その後独立リーグ行ってっていう間を過ごしてる時の、
周りの評価がびっくりするぐらい落ちるんですよね。
その時に支えになった歌ですね。
やっぱり頑張り続けなきゃいけないっていうかね。

 


そんな藤川球児さんに金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!

『金子の深堀り!』

   

-最終的に怪我の状態はどうだった?

ドクターからはその再建した腱が、足から移植したんですけど、
それがちょっと再び緩み始めていると。
もう3年ぐらい前からに言われてて。
結局骨の方のとこに歪みが出てきてたんで。
そのまま投げ続けて、僕はいつでも潰れてもいいと言っていたんで。
気づいた時には。肘で靭帯の再建の移植の必要性。
外側の骨が削れてるんで、そこを埋めるやつ。骨棘が2つ。
もう一個なんかあったな。神経で。肩の方もしんどかったんですけども、
肘が原因できてるんで。
週1回投げるのであればいいんですけど、毎日は無理だなっていうとこですね。

 

―あの2005~6年あたりの、分かっていても当たらない真っ直ぐは
 いつ頃から出なくなりました?

やっぱり手術してからですね。だけどまぁ技術でどうにかなりますから。
実際はね。それは若い時に培ってきた勉強してきた野球に対する、
頭脳の方であって。
それを最後に上手に使えたんで、
引き出し開けずに最後に持っといて良かったなーっていうような感じかな。

 

―当時と何が違うんですか?

体のコンディショニングっていうか、それこそ、
その時についてた人体の状態であったり、バネですから。
全てがたまたま重なったんじゃないですか?おそらくね。
ピッチングフォームは何も変わってないし。
ただ可動域も関係してると思いますね。
肩甲骨、股関節の可動域。
投球の際に必要な関節可動域と言うんですか?
それって年齢とともに落ちてくるんですよね。
10代がすごく柔らかくて、20代から骨格が固まりだして、
30代から少しそれが動かなくなってきて、故障がちになって。
それを抜けて35~6歳ぐらいからそれを上手に使っていくっていうのは、
僕が今まで過去の投手も見てて、うまくやれてる選手達かなと。
これはまあ、これからもほとんどの選手が当てはまってくると思います。

 

―先発投手でなかなか芽が出なかった藤川さんを後ろに持ってました。
 中継ぎと言われた時の心境は?

もう全然何とも思わなかった岡田監督だったし。
短いイニングだったら簡単に抑えられるってある程度思ってたんですよね。
先発しても5回ぐらいまでノーヒットとか2安打とかは普通に出来てたんで。
勝てないし、向いてるって監督が判断するなら
岡田監督の言う通りにしたいなという風には思ったし。
そんな余裕もなかったから、1軍で投げられるならいいって思いましたね。
だけどまた先発至上主義に変わると思いますよ。
もうメジャーリーグも完全にそうだし、パリーグに勝とうと思うなら、
どう考えても先発至上主義にならなきゃいけないし。
リリーフに比重を置いてても。

 

―何故でしょう?

これは話すと、3時間から4時間かかかるので、
そこだけ伝えておきましょう。
これは自分も指導者じゃないし、指導者になった時とか、
そういう風になる可能性が出たら実現させていくんでしょうけど。
現状では他球団もたくさんいるんで、それを教える必要がないので(笑)

 

―中継ぎで目標とする選手はいた?

僕は岩瀬さんでしたね。あとは大魔神・佐々木さん、
高津さんというところはいましたので。
でもそんなところを見据えられてなかったかもしれない。
まだまだ甲子園球場っていう存在が大きく感じたくらい。
甲子園球場の中で走り回るというかね、
そういうことが出来る喜びの大きかったと思いますよ。

 

―甲子園球場が身の丈にあった存在になったのはいつ頃ですか?

自分を苦しめてるなーっていう風に思ったのは
2007年とか8年、9年ぐらいかな。もうアメリカ行きたいなーってのが、
その時点では飛び出したいっていうのがありましたし。

 


そんな藤川球児さんが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?

『粉骨砕身』です

現役を辞めるって分かった瞬間に、
その最後に出てきたのはこれだったんですよね。
俺もしかしたらこういう気持ちでやってたのかなって。
誰かのためにと思ったけど、その時の自分はどこにあったのかなって。
誰かに尽くし上げることが好きで。
そこでぶっ倒れるのが多分好きだったと思うんですよ。
ポジション柄そういうとこだし。
リリーフになって助けてくれって言われた時に助けた時にチームが優勝したので。
終わった時にありがとうって言われたわけですね、
これが一番自分の人生における、
大人になって気づいた幸せの感じ方だったんですよね。
自分の身を粉にしてでも勝った時に、みんなからありがとうって言われる。
大きな声で言われない時もあるし、
ちっちゃいなところで球児さんありがとうございますとか。
そんな毎日を過ごしてたら、こういう言葉になりましたね。
記者会見では、この感情だけは出しておかないと、自分が何のために、
藤川球児という選手がプレーしてたかは今日伝えなければいけなくて。
シーズン最後じゃなくて、なぜ今日記者会見してるのか。
というのは伝えとくべきだったんで。なぜなら体が壊れてるんで。
これ以上貢献できないんで。だからこの日だったんですよ。
だからこの日で終わったって言ってます。

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