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八木沼純子さんが早大の先輩・瀬古利彦さんから言われた忘れらない言葉

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今週のゲストは、
プロフィギュアスケーターで、
フィギュアスケートで解説の達人とも言われ八木沼純子さんです。


  


八木沼純子さんのプロフィール】

八木沼純子さんは、1973年、東京都のお生まれ。
5歳からスケートをはじめ、早くから国際大会で活躍。
1988年、世界ジュニア選手権で2位、
この年、14歳という記録的な若さで、カルガリー・オリンピック出場。
初のシニアの国際大会がオリンピックという異例の出場を果たした。
スピンの美しさを武器に、その後も数々の国際大会に出場、
1995年、早稲田大学卒業と共にプロに転向、アイスショーに出演。
フィギュアスケートの解説や現地レポーターなど分かりやすい解説で
“フィギュアスケート解説の達人”とも呼ばれている。

   


-東京でフィギュアスケートを始めるのって珍しい?

あの当時は、意外と東京にスケートリンクが多かったんですよ。
私が住んでいるところから近いところで、
品川プリンスホテルの中にスケートセンターがあって。
今はホテルと水族館と映画館になっているんですけど。
私の母親が高校生の頃、後楽園にスケートを滑りに行っていた世代だった。
日本で、フィギュアスケートとボーリングが流行った第1世代らしいです。
だから青春の1ページとしてスケートを滑るっていうこと自体が残ってたみたいなんですよね。
それで、近所のお友達と一緒に「スケート滑りに行こう」って言って一緒に滑りに行ってて。
そこで品川のリンクの一般開放の中の端っこの方で、
「幼児スケート教室」っていうのやってたんですよ。
「教室があるっていいじゃない」って言って、
そこに申し込みをして通うことになったんですけど。
私はもう本当に転んじゃ泣きっていう全然駄目な子供だったらしいんですけど。
そこで出会ったのが、私が選手時代とプロになってからも師事している
福原美和さんというコーチだったんです。
そのコーチが私の母親と高校の先輩・後輩でたまたま知ってる仲だったんですね。
この先生だったらっていうことで、先生に預けられて。

 

-人数はどれぐらい?

何十人かいましたね。
福原先生がマジックのように素敵な笑顔で全部泣きやませてくれるんですよ。
楽しい気分にさせてくれて、
「はいじゃまた来週ね」って言って上がらせてくれるので、
全く嫌な気持ちにならないまま続けられました。

 

-教室から選手にステップアップしたのは何歳ぐらい?

個人レッスンが始まったのが、スケート教室に数ヶ月間ぐらい通ったあと。
そこで5歳の時に、先生に10分間だけって言われて習うようになりました。
それが週一回が、週に2回、3回、4回、5回ってどんどん増えていくようになりました。
私は何かこの先生に個人的に習いたい、
一緒にいたい。先生と一緒に遊びたいっていうのがあったので。
優しいし、いい先生だなって思って。
騙されましたね(笑)

 

-試合に出たのは?

小学1年生の時ですね。関東のローカルの試合。
関東のクラブに所属している人たちが出る大会で。
大会に出るには、初級を持ってないといけないんです。
フィギュアスケートは、初級が一番下で、8級が一番上です。
シニアの羽生結弦選手や宇野昌磨選手が出てる
全日本選手権に出るためには7級を持ってないと出れないですよ。
バッジテストっていうのがあって、
そこで初級、1級、2級、3級って受けていって、
ショートプログラムとフリースケーティングと上になればなるほど
高度になっていくんですけど。
まず初級を受けて受かったらその試合にでようと。
それで先生からシングルアクセルが飛べるようになったら、
試合に出てもいいわよって言われたんですよ。

 

-跳べたんですか?

なんか跳びましたね。
そこから特訓が始まって、毎日リンク行こうってなって。
試合ってよくわかんないけど、なんかリンクを独り占めして滑れるらしいっていう。
要するに今まで練習リンクっても30人ぐらいいる中で滑ってたけど、
一人で滑るっていうことがよくわからないですよね。
見てるのはアイスショーだし、なんかみんな華やかに綺麗な衣装着て。
なんだろう試合って…。
でも新しい響きで面白そうって言うので、そこから特訓が始まって。
とにかくその一回転半のシングルアクセルを跳べっていうので、
そこから母親も夢中になっていました。

 

 

リクエスト曲は?

 Reach / Gloria Estefan 

これは、私が初めてメディアで伝える側としてオリンピックに行った時の、
オリンピックのテーマソングになってた曲なんです。
毎日オリンピックの現場に行って、聞いていた曲でもありましたし。
最初に自分が伝え手として参加してオリンピックでもあったので、
そういった意味ですごく印象深い曲の一つです。

 


そんな八木沼純子さんに金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!

『金子の深堀り!』

  

14歳で出場した1988年「カルガリーオリンピック」は魔物に飲み込まれた?

めっそうもないというか。まだ魔物なんて。
自分自身が何者かもよく分かっていないという状態。
走り出して現場に入ってという感じだったので。
これまで、1500人ぐらいの会場でしか滑ったことがなかったんですよ。
そこで行ったのがカルガリーのサドルドームっていうところが、
アイスホッケーと同じ会場で。
そこに入った途端に「ここでやるの?」っていう不安が芽生えました。
怖いって初めて思っちゃったんですよね。
それで、公式練習の間はそんなにお客さんが入っていないので、
怖さが分かんなかったんですけど、
試合になった途端に自分の目線から頭の上までお客様が入ってて。
360度、囲まれてる状態なんですね。
「ここで滑るの?」って必要以上にドキドキになってましたね。

 

-そういう経験は?

初めての緊張感でした。
だから、オリンピックですごく勉強になったのが、
一緒に出場した伊藤みどりさん。
過ごし方だったり試合に向けての調整の仕方。
後はリンクの中の更衣室で、各国の選手たちの試合に向けての調整の仕方とか、
過ごし方とかっていうのは、ジュニアの選手にはなかったです。
ジュニアは子供なので、皆でキャッキャって言って、
仲間意識みたいのもあったんですけど、何となく。
ただオリンピックはそういうものがない別物の大会なので。
秘めたバチバチでしたね。本当にみんな集中してて。
本読んでる人もいるし、すっぽんぽんでストレッチしてる人もいるし。
一人で何か喋ってたり、鼻歌歌ってたり。
そういう中にぽつんと入って、
「どうしたらいいかな〜」みたいな。
こういう過ごし方なんだって初めてわかりました。

 

-収穫はたっぷりあった?
凄くありました。
あそこに行かないとわからないっていうものは本当に多くて。
前に荒川静香ちゃんと一緒に話した機会があって。
その時に、彼女が長野オリンピックが初めてのオリンピックだった。
そのあとトリノで2回目のオリンピックを迎えたんですけど。
あの時は女子が3人行きました。村主章枝ちゃんと、安藤美姫ちゃん。
一番スポットが当たってたのが安藤美姫ちゃん。
変な意味じゃないんですけど、他のお姉さん2人は、
自分のペースで練習ができてたと思うんですよ。
オリンピックもわかってたし、例えばメディアの注目のされかた、
スポットの当たり方とか美姫ちゃんにすごくいってたので。
そういった意味では、すごいリラックスして練習ができたっていうのは、
静香ちゃんも言ってました。
だからやっぱりオリンピックはもう1回出てみたかったっていうのは、
そのカルガリーの経験を持って迎えたかったなってのは思いますけどね。

 

-2度目、3度目のオリンピックに届かなかった原因は?

色々考えすぎじゃないですかねぇ。
その時に向けてのペースの作り方とか、
最終選考会に向けて、自分がどういう風に合わせて行くかっていうことも、
散々やってきているのにいろいろ考えすぎて。
自分で自分をダメにしちゃってる感じがあったんじゃないかなと思います。

 

-2度目のオリンピック出れば、恐らく八木沼さんに集中してましたよね。

カルガリーの時は、本当に自分の中では初めての経験だったので、
びっくりしたのと、どういう風に対応していいのかがわからなくて逃げてました。
だからすごい態度悪かったと思います(笑)
メダルを狙えてる立場でもないのに、なんでこんなに色々聞いてくるんだろうとか。
ちょっと集中したいのに。裏でアップして一人でいたいのに…。
そういうところも全部見られてるわけですから。
そういうのにも慣れていかなきゃいけない。
だからカルガリーの時はもうフラストレーションも溜まるし、
自分自身が出せないしとかっていうのは確かにあったかもしれないですね。

 

-1992年アルベールビルを目指す段階になっても変わってない?

多分その段階では、「おはようございます」とか「ありがとうございました」とか、
普通に変わっては来てたと思うので、大丈夫だったと思います。
オリンピックだとこういう感じで記者さん達いらしてたなぁとか、
想像はして行動はできてたと思いますね。

 


そんな八木沼純子さんが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?

『本番を想定した練習がどれだけできるか』です

マラソンの瀬古利彦さんからのお言葉です。
早稲田大学の先輩から。
私、その時全く分かってなかったんですよ。
「そりゃそうだろうな」と思って聞いてたんですけど。
結局、練習のための練習をしててもしょうがない。
練習の時に、今日はノーミスでプログラムを滑ろうとかっていう練習じゃなくて、
ちゃんと試合と同じような、試合の緊張感だったり、
ジャッジが今ここにいると思って滑ってて、
6分間の練習が終わって、自分が第一滑走者で、曲の前にどうやって出て行って、
スタートポジションに立って滑り始めるか。
そして滑りきるかっていうのを、ちゃんと試合で自分がどういう状況で、
どういう気持ちになってとか。
もしここでミスした場合に、どうやって取り返していこうかっていうことも
ちゃんと考えながら滑り切ることができるかっていうことが大事っていう話。

 

-聞いたのはいつ?

高校1年生の時に聞いて、それがわかってきたのが高校終わりから大学ぐらいです。
本当に分かったのは。
練習の時に本番を想定した練習をしなきゃいけないというのは
こういうことなんだって、やっぱり試合を想定して練習する大切さっていうのを
すごく感じながら練習するようになりました。
だから「ジャンプが跳べない!」ってなっててもしょうがないし。
それがその当日の朝かもしれない。
じゃあ本番に向けてどういう調整をしていけばいいのかとか。
朝の練習、公式練習45分間の練習でここの練習を置き換えて。
どうしてもジャンプが駄目だったら、
もう1回自分の体の向きのジャンプの跳び方だったりとか、
このトリプルは今はやめておいて、
他のトリプルを調整していって最後にもう1回やるとか。
そのジャンプはちょっともうここまでで置いておいて、
後は床で回転の練習する特に、もう一回確認をしてからとか。
そういうことを考えながらやるようになっていきました。

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