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敵から心無い言葉を言われている三宅諒選手に母親が言った言葉

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今週のゲストは、
2012年ロンドンオリンピックフェンシング
男子フルーレ団体銀メダリスト
三宅諒選手です。


  


三宅諒選手のプロフィール】

三宅諒選手は、1990年、千葉県市川市生まれ。
小学1年からフェンシングを始め、小学校6年の時には全国大会で優勝。
2007年、慶應義塾高校在学中、U-17の世界ジュニア・カデ選手権で優勝、
日本人初の世界選手権覇者となった。
慶応大学に進学後、2010年からナショナルチームの一員として世界を転戦。
2012年には、ロンドンオリンピックの
フェンシング男子フルーレ団体で銀メダルを獲得。
翌年には、全日本選手権、アジア選手権の個人で銀メダルを獲得。
2016年のリオ・オリンピックへの出場は叶わず、
一時は剣を置いたが、東京オリンピックを目指して奮起。
プライベートは、ウーバーイーツでアルバイトをしていることや、
自身の公式YouTubeで、
8月1日に一般女性と結婚していたことを発表し、
話題となった。

   


どうして小学校1年生からフェンシング?

僕は、そもそも運動が苦手なんですね。
まず、5歳の時に母に映画「タイタニック」を見せられて、
簡単に誰船沈む映画なんですけれど、船が沈んだ所を見せられて、
「あんた泳げないとこうなるのよ」と言われたんですね。
それで子供ながらにめちゃくちゃビビったんですけれども、
それで通わさせられるんですよ。
実際に泳いでみると、なんとかなるんですけど、
どうしても背泳ぎができなかったんですよ。
鼻に水は入るわ、レーンは曲がっちゃうし。
「これはやだな」と思って、やめてしまおうと。
そこがカルチャースクールだったんで、別のものに移れば辞めれるんじゃないか?と、
子供ながらに思って、色んな写真があるんですけど、
その中でパッと見つけたのがフェンシングだったんですね。

 

-ご自身でチョイスしたんですか?

はい。もう「これだ」って思ったのかな。
珍しいものが好きだったんでしょうね、多分。
本当に剣道とフェンシングその二択だったんですけれども、
なぜか分かんないですけど、僕が5歳の時に、
裸足が嫌だって理由でフェンシングになったんです。
だいたい僕の世代とか、2世が多いんです。
親御さんがフェンシングをやられていて、
それで子供にもやらせるっていうことが多いので。
ロンドンオリンピックとかのメンバーでも、ほとんど親御さんがやられていて。
自分から始めてるのは僕ぐらいじゃないですか。

 

-背泳ぎから逃げるために始めたフェンシングの世界に入ってみていかがでしたか?
 
それでも、フェンシングは習い事という感覚でやってて、週に1回だったんですね。
小学校に入ってからも、週に1回火曜日を「フェンシングの日」っていう風にして。
なんならブラスバンド部に入って、
テナーサックスをやってたんですけど、そっちの方が練習していましたよ。

 

-週一ペースのフェンシングはどれくらいまで続いた?

小学校4年生ですかね。5年生の時は3位だったんですよ。
4年生で2位。銀メダル、銅メダルだったので。
全国大会のメダルがかっこいいんですよ。
いまだにあのデザイン結構いいなっていうくらい。
桐の箱に入ってて、結構大きいんですよ。
家で並べながら見てて、
「ここに金メダルあったほうがいいな」っていうぐらいの感じですよ。
まだその時は、テナーサックス一生懸命やった時ですから。
それで、僕が始めたフェンシングのカルチャースクールが、
結局なくなっちゃったんですよ。
それで、どこでフェンシングを習わせようかってなって。
その行く先がゴルフの打ちっぱなしのとこしかなかったんですね。
うちの父は、こうなんかすることないかなと思って、
僕の後ろで見てたんですけど、自分も始めて。
うちの父は武道の心得があったから、構えをすごい大切にするんですよ。
そういうゼロの地点を。
フェンシングの面白い所っていうのは、
10人いたら10通りの戦術とか戦略があるんですよ。
基本的に突いたら勝ちなので。
そんな中で、うちの父は絶対に、
構えを頭の先から足の先まで神経を張り巡らすんだって。
対人競技じゃないんですよ。
なので、ウチの父は僕に「型」
という概念を教えてくれたっていうのがすごくあって。
基本的にフェンシングの練習は週2回とかなんですけど、
毎日、型の練習をさせられましたね。

 

-中学校ではフェンシング部は?

ないですね。部活じゃなくてクラブの方で続けて。
そこで一年生は普通に暮らして、2年生は生徒会長とかしてましたね。
学校の業務の方が結構多くて、
意外にフェンシング一筋ではないですね。

 

-高校は神奈川へ行き、千葉のクラブでは通えなくなった?

毎日部活で練習するしかなくて。弱いです。
良い練習相手もいなくて、
それぐらいから、
全日本のヘッドコーチのオレグっていうウクライナ人に出会うんです。
中学校終わりくらいからそのオレグに出会うんですけど。
当時はオレグ自体も日本語喋れないし、英語もまあまあなんですよ。
それこそ今、会長の太田雄貴さんもいるんですけれども。
なんか二人で二人三脚みたいな感じですけど、
当時はもうバチバチ喧嘩してたんですよ。
もう全然口も聞かない。面会謝絶な状態なんすよね。
そうなるともうオレグっていらなくね?ってなるんですよ。
日本にウクライナから呼んでおいて、7日中、7日暇なんですよ。
それでオレグを稼働させようって大人が考えて。
ちょうどその時に僕は、どこのクラブも所属していないというか。
東京のナショナルトレーニングセンターに千葉から通えるって言う事で、
中学生を教えときなさいって言って、
僕とオレグが一番最初に師弟関係になるんですよ。
そういった事情からオレグは僕が一番弟子なんですよ。
だからすごい運がいいんですよね。

 

リクエスト曲は?

 飛行艇 / King Gnu 

 

試合前にテンションを上げたいんですよね。
それでいろいろ自分の中でテンションが上がる曲を
洋楽だったり邦楽だったりとかあるんですけど、
割と分かりやすく自分を盛り上げられるので。
やっぱり音楽って試合には結構、
自分のテンション上げるためにも切り離せないものなので、
割とそこは調節しやすくなったのでこの曲にしました。

 


そんな三宅諒選手に金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!

『金子の深堀り!』

  

2008年北京で太田選手がメダルを取った時は?

太田先輩がメダル取る前の年に、U17の世界一になってるんですよ。
日本で誰も世界選手権で優勝したことがなかった。
僕はそれで父との約束を果たすんですよ。
そこで、「ようやく太田先輩に強気でいけるぜ!」みたいなとこで。
太田先輩に「メダル取りました。ご飯食べさせてください」って。
料理作ってもらって。
今でもやっぱ思い出に残るんですけど、
それがあろうことかオリンピック直前なんですよ。
開会式って任意なので、出ても出なくてもいいんですよ。
だから太田先輩は「疲れちゃうから開会式出ない」って言って日本にいて。
太田先輩と僕が二人並んでテレビで開会式を見てたんですね。
それで、確か1日泊めてもらって、僕が住んでるところから電車乗って。
先輩のそのカバン引っ張って、
「頑張ってください」ってお見送りしたんですよ。

 

-2012年は?

まず、オリンピックの話をすると、
やっぱりその会場っていうのは独特な雰囲気で。
サーモグラフィーとかで撮ったら真っ赤に見えるんじゃないかって
くらいの熱気があるんですよ。
やっぱりその中央に立つとその人の視線だったりとか
テレビカメラでさえ、そのレンズの向こうには
何十億人見てるんだっていうのが分かってゾッとするんですよ。
カメラ自体がすごい人の力を持ってるとかいうのが。
僕も個人戦の時はプレッシャーでいいパフォーマンス出せなかったですね。
すごい熱気で、本当に何をしてるか今でも思い出せないですもん。
恥ずかしながら。
男子フルーレっていうのは本当に花形で、6種目あったんですけど、
そのなかでも、とんでもない期待があったんですよね。
僕らはその衣食住、全部協会から与えられてて。
それで最高のサポートシステムで臨んでた。
それでも誰一人として個人戦でメダルを取ることができなかったんですね。
これは「冗談抜きでタダでは帰れないぞ」
って言うぐらい落ち込んでましたね。

 

-団体戦は?

すっごい緊張しましたし、その時に太田先輩がチームの柱ですから、
ずっと落ち込んじゃうと良くないんで「集合」っていって。
4人で円になってみんなショボンとしてるんですけど、
「このままじゃ帰れない」
「お前らも人生変えてほしい」という話をされた時に、
「みんな頑張ろうぜ!」って。
個人戦から団体戦まで5日間あるんですけど、
常にみんなで一緒に過ごして。
「あーでもないこーでもない」とか。
それこそ、ほんとたわいもない話とか。
当時みんな独身だったから「理想のデートコースを考えてみよう」とか。
ちゃんとした話から、すごいくだらないところまで。
ご飯も全部一緒に、ずっと寝食共にしてチームビルディングっていうか、
団体戦に向けて気持ちを作り直したんですね。

 


そんな三宅諒選手が今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?

『あんたモテモテじゃない』です

僕は、母の言葉ってのは凄い大事にしていて。
「チーム三宅」っていう風に家族のことを呼んでるけど。
父が基本の形っていうものを教えてくれてたんですけれど、
それがちゃんと試合の勝ち負けじゃなくて形が保ててるかっていうのを、
うちの母がビデオカメラでずっと撮ってくれたんで。
試合の時も、常に僕側にいるんじゃなくて、敵側から撮るんですよ。
ちゃんと向かい合った時の映像が欲しくて。
敵の陣地で映像を回してると、結構ひどい言葉言われるんですよ。
「三宅負けろ!」とか。それをリビングで見るんですよね。
子供ながらに両親に見られるのですごく気まずいんですよね。
それでうちの母が、僕の目の前にいたんですけど、
こっちにパッて振り返って「あんたモテモテじゃない」と言ってくれたんですね。
「これだけ言ってもらえるって事は、すごくありがたいことなんだよ」って。
当時2ちゃんねるで叩かれてると、母は嬉しそうなんですよ。
段々叩かれなくなってくると、
「最近頑張ってるの?」って電話かかってきたりとかしますから。
それぐらい「悪く言われることもひとつの才能なんだよ」
っていうのを
言ってくれた時に、
「もっと頑張ろう」と思いましたね。

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