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高田敏志監督が監督になって良く使う大切な言葉

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今回のゲストは、
ブラインドサッカー日本代表監督の高田敏志さんです。


今回は、
高田敏志監督の『相棒』=「こだわりの用具」に迫りたいと思います。
キーパーグローブとサングラスを持ってきていただきました!

―まずは「サングラス」です。

監督、トレーニングもそうですし、試合をやるときに必ずかけるようにしてます。
ブラインドサッカーの監督ってフェンス際に立って、
真ん中のゾーン、ゴールキーパー、チーム全体に常にコーチングをするんですね。
プラス、相手の様子をうかがいながらコーチングをしなきゃいけないので。
相手が上手くいってる、いってないの含めて、
見ながらやらなきゃダメなんですけども。
自分自身が相手の監督の目線、
声がけだったりを常に気にしながらやってるというところがあって。
優秀な監督って多分向こうも同じことを考えてるだろうと。
なので、目線を見られるのがものすごく嫌なんですよ。
サングラスをかけて、方向は分かっても目線が絶対分からない、
フォーカスしてるところが、分からない状況を作って
コーチングをしたいというのがあったので、ゲームの時にかけるようにしてます。

 

-普通のサッカーに比べて監督は関与できる余地は大きい?

大きいですね。ゴールキーパーと監督、後ろにいるコーラー。
その晴眼者、見える人たちと、フィールドプレーヤー4人。
7人の競技だって言ってもいいぐらい関与が大きいですね。

 

-日本チームが言っている指示が相手チームにほぼ分からないんですよね?

そうですね、海外は日本語が分からないので、特に日本は格下ですし、
日本語を勉強しようなんてわざわざ思わないので、そこは非常に楽です。
だから「もっと日本語で喋れ、相手は分からないんだから」
ってよく言ってますね。
なので、スタッフにはポルトガル語、英語、スペイン語が出来る人がいます。
「あいつ、ずっと指示してるけど、何て言ってんの?」って
ゲーム中に無線でスタッフに聞いたりします。僕らが仕掛けてることが、
嫌がってるのかどうか。

 

-ゴールキーパーグローブは?

高校の時にクラブチームでサッカーやってて、
遠征に行ったりするんですが、金がかかるんですね。
夜は練習があるんで、バイトに行けないから新聞配達をやってて。
それで、初めてウールシュポルトのグローブを欲しいなって思って。
大阪の丸ビルの下に行って買ったんですよ。
初のウールを。
多分使ったことある人しか分からないと思うんですけど、
カチカチっていうか。

 

-なぜ、ブラインドサッカーの指導をしようと思ったんですか?

ロンドンパラリンピックの予選で日本チームが負けて、
リオに向けて新チームでスタートを切ってた時期に、
ゴールキーパーのコーチがいなかったという話を聞きまして。
当時、選手だった方から共通の友人を通じて、コーチがいないと。
「キーパーが良ければロンドンの予選に勝ってたかもしれない」って
話だったんですね。僕、そういうのが一番、嫌なんです。
「キーパーのせいにするんじゃないよ」と。
だけど一方で、日本代表なのにゴールキーパーコーチがいないのに、
パラリンピックに出ろっていうのは、それは監督も大変だし、
選手も大変だと思ったんです。
当時は、海外に行ってキーパーのロジックを全て持ってたし、
プロのキーパーコーチに全然負けるつもりはなかったんで。
2013年に1度見に行って、トレーニングを「こんな感じで」ってやったら、
キーパーのトレーニングをしたことない選手たちが、
すごく喜んでくれて。それを見た当時の監督が評価をしてくれて
「よかったら代表のキーパーコーチに入りませんか?」と。
2013年からですね。

 

-最初の印象はどうでした?

それまではブラインドサッカーって、
名前は知ってましたけど、見たこともないですし。知り合いに視覚障害者の方っていなかったので、どう接していいかも分かんないし、知識がないままだったんですけど。
ただ、初めて練習行った時に、見えないから、
ミスだらけでボールはどっか行っちゃったり、
それも追っかけて取りに行ったり…なんてしてるんですけど、
本当に楽しそうにサッカーをやってるんですね。
フットボールの原点、楽しむっていうか。これがサッカーだよなと。
街だと危なくて出来ないことができるわけですよ。
それをみんなで協力してやってるって、こんなに良いスポーツはないなと。
この子たちのために
「何かできることがあればやります、やらせてください」って話になって、
スタートしたのがきっかけです。
それでリオの予選までずっとキーパーコーチとして指導してました。

 

−リクエスト曲は?

My Revolution / 渡辺美里 

自分が高校を出て浪人してた頃、「Revolution」って言葉が響きが良くて。
何の実績もないけど夢だけ見て、勉強して、
とにかく大学に入ってサッカーをやるんだと考えていた時に聴いていた曲です。
ライブとかも行かせてもらったり、
直接ご本人と話をさせてもらったこともあったんですけど。
すごく自分を支えてくれてたっていうか、勇気を与えてくれた曲で。
それが18、19の頃ですけど、今も変わらず重みのある歌ですね。

 


そんな高田敏志さんに、金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!

『金子の深堀り!』

 

-2015年にブラインドサッカーの日本代表監督に就任されましたが、
これは有償のお仕事なんですか?

最初は違いました。ボランティアで。ただもうそれだと勝てないと。
お金の問題じゃないんですけど、
僕も含めてスタッフも全部プロとして食っている人達を連れてきてるので。
金額も出せるだけでもいいからちゃんと日当を払うところから文化を作ろうと。
理解はされてたけどお金がなかったんです。
もうできるところからやろうという事を、
ブラインドサッカー協会の方も言ってくれて。
 

-ライセンスや制度の問題は?
パラリンピック委員会のいろんな制度。
僕はサッカーの指導者ライセンスは持ってるんですけど、
障害者指導者のライセンスを持ってないので。
ただこれを持ってても、
サッカーは教えられないんですよ。だったらサッカーのA級、
S級とか持ってた方がいいんですけど、そんなことは当然、
通用しない世界なので。
でもそんなことじゃ良い指導者が来ないよ?ということで、
パラリンピック委員会で専任コーチ制度っていうのができまして。
障害者スポーツで実績のある人に限って面談とかがあって、
給料、まぁ経費ですね。
それが出ると。ゼロから考えると本当に画期的で大きな進歩ですね。

 

-当初は、辞めるつもりだったとか?

2015年の予選で負けた時に、キーパーコーチで入ってて。
すごく良いチームだったんですけど、1失点差で、行けなかったんですね。
その1失点で行けなかったことで、キーパーコーチとして責任を感じてるし、
要するに勝ち点3は取れないけど、
勝ち点1はキーパーの力で取れるじゃないですか。
それが僕の仕事だと思ってたんですけど、
勝ち点0の試合を1個作ってしまったんですね。
自分としては結果が出せなかったんで、
もうこれで終わりにしようって思ってましたね。

 

-そこから、もう一度続けようと思ったワケは?

ちょうど終わった後に、キャンプとか、
子供への普及活動とかすごくブラインドサッカー協会が、
代表以外にも普及活動の仕事をスタッフがやってくれて。
そこで、お手伝いしようかなと思ってたんです。
あとは簡単に言うと、お金が無かったんで、
僕がサッカーの仕事でスポンサーを取ってきて、
例えばこの大会の冠をつけたらどうだ?とか色んな事やってたんですけど。
その話をしてる時に急に呼び出されて。
当時、サッカー経験がない指導スタッフだったんですね。
盲学校の先生だったり。
でもそれはしょうがない、当時そういう文化だったし、補助もないし、
サッカー界も入ろうとしなかったし、
誰が悪いわけでもなく、そういう気持ちのある人たちが
頑張ってやってきた組織だったんですけど。
やっぱり外から見るとサッカーを知らないと勝てないワケですよ。

-そこからバトンタッチまでの流れは?

今のままだと難しいとは僕はヒアリングされた時に言ってはいたんですけど、
方向性としてそっちに行きたいって言うことを
ブラインドサッカー協会の事務局長から相談受けて。
ただ誰に頼んでいいか分かんないわけですよ。
もちろんブラインドサッカー協会は頑張ってたんで、JFNの皆さん知ってますよ。
でもコーチの選択なんてできないじゃないですか?
その指導者が何を教えるか分かんないですから。
なので一年間限定で代表監督と、
代表チーム部長をやってくださいっていうオファーがきたんですよ。
「新しい組織を作って、東京を目指したい」と。
僕は古いチームの人だから、新しい組織をつくるまでのつなぎとして。
最初、「ちょっと失礼じゃなんなんじゃないかな?」と思ったんですけど。

-どのようにして切り替えたんですか?

選手達とは、キーパーコーチだったんですが、
フィールドプレイヤーとも関わってたし、
選手たちは東京パラリンピックに向けても切り替えて頑張ってるなかで、
今、出来る事ってこれなのかなと思って。
それで、一年間監督をやりながらコーチも全部連れてきて、
その中から選ぶっていう方法と、
指導者養成してる人に指導者リストをもらって、
指導者研修を見に行って、何人かリストアップして、
一年後プロ化するっていうから、
指導者をバトンタッチするっていうことまではちゃんとやってましたね。

 

-その後、どうなったんですか?

一年間の間に色んなことに取り組みました。
それで中国に勝ったりとか、イランと引き分けたり、
アジア選手権でやられた相手にいい勝負するどころか、
勝ったりするようになって。
だいぶ状況が変わったら、結果が出ると言うことも変わってきて、
このまま延長してくださいってなったんですよ。

 

-東京パラリンピックに向けてどうですか?

延期になりましたけど、あと1年という時間をどう過ごすかって
すごく今、考えながらやってます。
どのチームも試合ができないなか、環境面で言うと、
管理をちゃんとやっていけば、
トレーニングをする環境は日本が一番進んでいると思います。
これは、ブラインドサッカー協会がものすごく努力をして、
そういう環境を整備してくれている。
これは海外では無いことなので。
日本人の良さっていうのが、オフ・ザ・ピッチで出ている風に感じます。
僕らは一番早くトレーニングを再開して、強度を高めて、
どこまで戻せるかっていうのをシミュレーションしながらやってるんですけど。
それは今非常にうまくいってまして、
他の国よりもうまく進んでるかなと思っています。
ただゲームができない部分を、
どういう風にやっていくかっていう課題はありますけれど、
まずプレーできる場所、時間がある。

 


そんな高田敏志監督が今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?

「可能性」

監督になって、やたらこの「可能性」って言う言葉を
よく使ってるなぁっていう風に思ってるんですね。
何か新しいことをやろうと思った時に、可能性はあるのか?とか。
可能性何パーセント?って数字で評価するじゃないですか?
その可能性って言葉は「できるか、できないか?」
「チャレンジするか?」ということに繋がってくると思うんですけど。
この言葉を当てはめることによって、
やろうとしてることが明確になると思ってるんです。
あと5%シュートの確率が高まれば、勝つ可能性が高まるとか。
可能性を高める、可能性にこだわるということは、
色んなことを具体化して、考えることができるなっていう風に思ってまして。
とにかく「可能性」ってあるのかな?って自問自答しながら、
得点できる可能性はあるかな?無かったら可能性を高めるためにトレーニングしようとか、その材料にまず、可能性って言葉を使わないと動きが無くなってしまうので、
すごく可能性って言葉は大事に思ってます。
パラリンピックは、世界的にみんな苦労しながら、本番を迎えると。
僕は開催できると信じて準備してるんですけども。
人類史上これだけ大変な状況のなかで、サッカーができる、
そんな状況でサッカーをやっていいと思ってんのか?って
この前も言われたんですけど、
それはやってる側からすると関係ない話じゃないですか。
この状況の中で、サッカーをやるとみんな喜んでくれると思うし、
僕は本当に世界のブラインドサッカーの選手たちが頑張って、
安全を担保した上で、日本に来てくれてのびのびとプレーできる。
勝ち負け以上に、視覚障害者の選手たちが華麗なプレーを見せる。
この状況でそれを達成すれば、
本当に人類史上これほど素晴らしい大会はないって
いうぐらいの大会にできると思ってます。
なのでそこで、日の丸を背負って出れるって言うのは、
運命でしかないし。今この場にピッチに立てるメンバー・スタッフは、
責任を持ってここに挑もうって思ってますので、本当に晴れ舞台ですし。
海外の選手達と、ブラインドサッカーの楽しさを
感じられる大会にしたいなって思ってます。

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