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ブラインドサッカー日本代表・高田敏志監督が母親から言われて大事にしている言葉

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今回のゲストは、
ブラインドサッカー日本代表監督の高田敏志さんです。


高田敏志監督のプロフィール】
 
高田敏志さんは、1967年、兵庫県生まれ。
小学3年から青山学院大学卒業までサッカーに打ち込み、
ゴールキーパーとして活躍。
高校時代は、1985年のクラブユース選手権で
大阪府・交野(かたの)FCの守護神として全国3位に貢献。
大学卒業後、サッカーの指導者を目指し、
会社を辞めてヨーロッパへ渡った。
ドイツ・バイエルンミュンヘン、イタリア・ACミランやパルマなどで研修を受け、
帰国後の2013年、ブラインドサッカーに出逢う。
その後、ブラインドサッカー日本代表の指導も始め、
ゴールキーパーコーチを経て、2015年11月から監督に就任。
日本代表が初めて出場する東京パラリンピックでメダル獲得を目指す。


 

―いつからゴールキーパーだったんですか?

小学生の頃は、フィールドプレーヤーやったり、
キーパーやっても交替でやることが多かったんですけど、
5年生ぐらいからキーバーが面白いなっていう風に思いまして。
割と自分から進んでやりました。

 

―そもそもサッカーを始めたきっかけは?

友達がやってたからですね。周りはほとんど野球少年。
野球全盛期ですよね。
まぁ少年野球チームにも入ってたんですけど、
野球は結構きっちりしてるっていうか、
サインがあったりとかみんなで声を出すとか規律がしっかりしてるんで。
当時、サッカーは割と自由なクラブだったので、
あまり制約がないと言うか。
そこはわがままな自分にとって良かったかなって。

 

―当時、サッカーでゴールキーパーはあまり人気がなかったのでは?

そうですね。
走れないか、ドリブルができない人とかが行かされるポジション。
今だとちょっと問題になりますけど、
コーチたちも「キーパーでもやっとけ」みたいなことを言ってましたし。
でも、あんまりそれをいじめられてるとか思わずに、
割と順番にみんなでやってた中で
「なんで俺だけ3回やるんだ」とかって思ったこともありましたけど。
ただ、サッカー自体が下手でも役割をもってやれるっていうのは、
今思うと子供の頃から、自分の楽しみ方っていうのがあったなって思います。

 

―大学は青山学院ですが、推薦で行ったんですか?

いえ、受験で入りました。実は一年浪人して、
大阪の大学に入ってサッカーをやってたんです。
そこで初めて体育会の上下関係というか。
今ではクラブユースで〇〇君とかって呼びますけど、
当時そんなこと言ったら大変なことになった時代だったんです。
それが分からなくてですね。
一応リスペクトはあるんですけど、
「試合に出てるの僕なのに、なんで出てない先輩をマッサージするんだ」とかね。
先輩が帰っていいって言うまで帰れないとか。
これはちょっとなぁって思って。
ここでやってらんないなと思って、色んなとこを聞いて、
関東だとそれなりの選手が集まるんで、
もちろん上下関係あるんですけど。
青学がどうこうっていうわけじゃなくて、
関東リーグで色んな人たちを観る事が勉強になるかなと思ったんです。
100パー無理って言われたんですけど、
奇跡的に合格して東京に来ました。

 

―大学卒業後、社会人としてプレーする選択肢はなかった?

大学の2年生ぐらいから青学の中等部のコーチをやってたりしてたんですよね。
もう選手としてこれ以上はないだろうなと。
何かできることないかと思ってる時にコーチの話があって。
やるとどんどん上手になるし、自分も勉強になるし。
それでコーチの方に興味がだいぶ出てきて。
3〜4年生の頃は結構コーチ目線でしたよね。

 

―就職したのが西武百貨店だそうですが、
サッカーはあくまでも趣味の一環としてやっていたと。
それがどこで変わってきたんですか?

海外に行くような仕事をしたかったんで、商社とか色々受けてて、
まぁサッカーが見たかっただけなんですけど。
海外駐在員とかなれたらいいなっていう風に思ってたんです。
まぁ思う通りに行かなくて。だったら今ウチに来れば色んなことはできるぞと。
セゾングループに入れるんだったら、こんないいことはないって。
周りもみんなイケイケっていうことで、
僕もいいのかなと思って行ったんですけど、実際行ってみると、
土日も仕事なんですよね。サッカーに行けないわけですよ。
社会人リーグでやることもできないし、趣味でやることもできない。
子供のサッカーにも行けないし、残業もあるし。
2年ぐらいでスパって辞めて。その頃に当時、
同い年の奴らがJリーグで華々しくデビューして、
サッカーってプロができたんだって感じまして。
でも僕はコーチとしてそういう選手を育てたいなって思ってたので、
何かできることはないかって思いながらですね。

 

―失礼ながら、高田さんの経歴でプロを教えるのは難しくなかったですか?

よく分からないんですけど、何かをしながらやるしかなかったですね。
仕事をしながら少年サッカーのコーチ。その生活には慣れてたし。
それが前提だと思ってやってたので。
だからここでJクラブのアカデミーでコーチになれなくても、
町の少年団のコーチをやっていても、
そんなに違和感なかったというか、
あんまりブランド思考ってなかったんですよ。
町田のある少年団を8年ぐらい教えたんですけど。
東京都のサッカーチームって700チームぐらいあるんですね。
その一個の小学校のクラブがかたっぱしからやっつけていくわけです。
東京都でもベスト8ぐらいまで行けるんですよ。
ヴェルディとか色々プロのコーチが教えてる所にも
やっていけば勝てるって言うのが、すごく面白かったんですよ。

 

リクエスト曲は?

映画「グラディエーター」のテーマ曲「Now We Are Free」

映画グラディエーターのテーマ曲なんですが、
強いチームをやっつけるっていうことに、
すごく燃えてた時期だったんですね。
その時にこれを聞いて映画館で感動して泣いたことを覚えてて。
数年後、バルサが好きだったんですけど、
ベップのあの時代が一番面白かったんです。
今、全くぱっとしないと思うんですけど。あの決勝ですね、
決勝に行くまでのなかでもチェルシーに負けそうなっちゃうとかね。
あの辺の部分を含めたモチベーションムービーを使うのに、
これが選ばれて。それをチャンピオンズリーグの決勝前に、
ベップがみんなに見せて選手が泣いてしまったって話をあとから聞いて。
その映像を見た時に本当、今でも鳥肌が立つんですけど、
必ず試合前にそれを見ながら、モチベーションが高まることに使ったり、
肩書きが何もなかった頃の、街の少年団のコーチだった頃でも、
「絶対この子たちをどうにかするんだ」って、
野心に燃えてた頃の自分を思い出させてくれる曲なんですよね。

 


そんな高田敏志監督に、金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!

『金子の深堀り!』

―生活の安定していた日本総研、なぜ辞めてしまったんですか?

給料は非常に良くて、お客さんとの共同プロジェクトなので、
仕事も満足してました。
土日は休みで、夏休みもあって残業もそこまでなかったんですが、
競争原理がない中で働いているとダメになると思ったんです。
ただ、ITの市場ってものすごく成長できたし、
常に新しいものが出てくるんです。
サッカーと同じですね。そこで選択したのが、
日本総研を辞めて、フリーランスになったんです。
大学出た時は日本経済がバブルだったですけど、当時はITバブルで、
当時のエンジニアは今のエンジニアがかわいそうになるぐらい、
いい値段がついてたんですよ。
給料も1.5倍ぐらいまでいって。
1ヶ月~3ヶ月で契約はできるんで。これはいいなと。
一か月休んで海外研修に行けるぞと。
 

―辞めた理由はもう一つある?

もう一つは入れてくれた僕の友人のお父さんがいるうちは
いなきゃいけないと思ってて。
定年で退職された翌年に1年経って顔に泥を塗らないようにして、辞めたんです。
そのITの世界で一番になろうと思ってなくて。
やりたいことをやって自分で勉強できて、あとはお金が入ってくる。
時間を作れると。契約で1ヶ月と2ヶ月休めるわけです。
だから一年分を8ヶ月死ぬほど働いて、
4ヶ月休もうと思えば休めるわけですよ。
それぐらいしか、海外で勉強する方法がないんですよ。
元プロ選手が、引退してコーチになったらクラブのお金だったり、
補助金、助成金だって色々でますよね。
でも、僕らは町のクラブで行っても、一切お金は出ないですから。
自分で金と時間を作って行くしかないし。
海外には、行ってみないと分かんないことがあるだろうなって
ずっと思ってたんで。そのお金が絶対できるような仕組みを作って
海外にチャレンジしようと思いました。

 

―趣味でやっていたサッカーですが、
 いつの間にか本格的に取り組むようになったんですね。

恐れ多いんですが、当時、ゴールキーパーの指導理論って何もなかったんですよ。
キーパー経験者が「俺はこうやって教えてもらったから」って
なんか100本ぐらいシュート打たれて、
クタクタで倒れて今日はやりきったみたいな。
例えばステップとか、キャッチングなのか、セービングなのか、スローなのか、
キックなのか、ビルドアップで何が上手くなったか
分かんない練習ばっかりだったんですね。
だけど、ヨーロッパはあれだけでかくて、
上手い選手が足元もできてとか、
判断も優秀でって選手がずっと出てくるじゃないですか?
絶対、育成年代の指導が違うんだろうなと。
教えられてないとできないと思うんで、海外に行って勉強しなきゃいけないなと。
それで勉強してそれを伝える人がいないと思ったんですよ。
今はゴールキーパープロジェクトっていうのがあって、
今、頑張ってやってますけど、昔はそんなのなかったですから。
自分で行って、勉強して何か伝えるっていう。
日本のキーパーをよくしようっていうのは、
当時は誰にも恥ずかしくて言わなかったですけど。

 

―その頃は結婚されていたんですか?

最初、大変でしたね。給料って基本的に奥さんが管理してるから、
最初は短期でドイツに行ったときも、当時ユーロが160円ぐらいで、
予算の見積もりも狂ってね。自分のへそくりじゃどうにもならなくて、
家の金をどっかから引っ張っておかなきゃ駄目って時に、
「何で少年サッカーのコーチがバイエルンミュンヘンとか行くの?」とか、
「あなた何を目指してるの?」って言われたんです。
それで「世界を目指してる」って言ったら
無言でリビングから奥さんが出てったのを今でも覚えているんですけど、
もう呆れてたと思うんですけど。
でも、俺はそれをやるために仕事頑張ってるからっていうのをアピールして、
最終的にいかせてもらいました。

 


そんな高田敏志監督が今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?

『縁と運』です

これは母親から言われました。僕自身、母子家庭で。
母親苦労して、仕事忙しくてかまってもらえない。
とにかく全て自分で決めなさいと。
だからめちゃくちゃな人生歩んできたんですけど、
母親だけは一切、文句を言わなかったですね。
奥さんは真面目な人だし心配はしますけど、
お袋はもう「自分で決めたならそれでちゃんとやればいい」
という人だったんです。
その中で、色んな出会いがあって、
ITの仕事だったり、少年サッカーの仕事だったり、
今はブラインドサッカーの仕事だって色々やってますけども。
サッカーのことを全然分からない母親でも、
色んなとこで僕の話を聞くと。行くとこ行くとこで、
「あなた何でそれになれたか?何の能力もないけど『縁と運』のおかげだよ」と。

それを絶対忘れちゃいけないと。
例えば、なぜ町田で少年サッカーチームに出会えたかっていうと、
奥さんと結婚して町田で住んだからなんです。
全て「縁と運」で、それを大事にしてきたから、
今色んなことがうまくいってるし、色んな人に助けられてる。
サッカーを教える人はたくさんいると思うけど、
そういう凄い人じゃなくて普通の人でも縁と運を大事にしてると、
必ず成功できる可能性が高まると。
ちょっと監督とかになって、
周りからちやほやされるところがあったりするのも、
見たことがあったんじゃないかと思うんですけど、
怒るわけでもないんですけど、「勘違いしちゃだめだよ」と。
縁と運のおかげで、あなたは今幸せに生きてるんだっていうことを言われました。

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