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小林至さんがクリントンの故郷で得た言葉

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今回のゲストは、
東大出身の元プロ野球選手・小林至さんです。


今回は、
小林至さんの『相棒』=「こだわりの用具」に迫りたいと思います。


私、昔のものを結構大事に持ってるんですよね。
これね、マリーンズ時代に使ってたグローブ。
背番号63が刺繍に入ってて。
臭いんだこれが。鹿革のね。

 

-このグローブのこだわりは?

やっぱり色でしょうね。
当時のロッテのユニフォームってピンクだったんですよ。
その同じピンクを、
どうやって出すかということで当時契約してくださった
スポーツメーカー「TAMAZAWA」にお願いしたところ、
このピンクのグローブを作って下さった。
今、三つぐらい残ってますかね。
その後草野球でも使ってますね。
あとはソフトバンクの時の「グラコン」=グラウンドコート。
これは私たちのフロントのユニフォームですよ。
キャンプの時、チーム帯同のとき、
これ着てないとセキュリティーの時に止められちゃいますから。


 

-コロンビア大学に留学した小林さんがなぜソフトバンクに?

7年アメリカいて、アメリカの会社クビになって帰ってきまして。
凱旋帰国じゃなくて傷心帰国だったんですが。
2002年から江戸川大学の教員にありがたくなることができました。
2004年に球界再編起きたでしょ?
あの時に一応研究者の端くれとして
プロ野球に経営に関する本を書こうということになって、
渡辺恒雄さんと話しする機会を得たんですよね。
手紙を書いて、そしたら渡辺さんが私を受け入れてくれて
インタビューを敢行しましてね。

 

-手紙を書いて、それで受けてくれるのもすごいですよね。

最初、普通の広報ルートでお願いしたところ、
「今インタビューは一切受けてませんから」と言われてね。
思いの丈を手紙に書いて配達証明郵便で送ってね。
電話をしたら、インタビューをさせてもらって。
それで球界の経営の指南書・経営本を書いたところを、
その本を読んだ孫正義さんから連絡がありまして、
お会いしたところ「経営手伝ってくれ」という展開になったんです。
2005年正月の時でした。

 

-その時の心境は?

いや、もう私いつかはプロ野球界に戻りたいと思ってたんで
天にも昇る気持ちでしたね。
奇跡って起こるんだと思った。
多分運を相当使いはたしちゃったんですよね。
プロ野球に入ったとこで運を使っちゃったでしょう?
もう金田さんと、当時のスカウト部長の醍醐猛夫さんに感謝です。
今度は孫さんからソフトバンクで取締役として経営手伝ってくれと、
球界復帰を果たすことができたラッキーですよね。

 

-普通の選手じゃありえない転身ですよね?

野球で実績を残してなくて取締役になった人は多分私が初めてだと思いますね。
それだけに張り切ったんですけどね。
とっても嬉しい10年間でしたよ。
最初の5年はビジネス担当をやったんですね。
プロ野球ビジネス。チケット販売、スポンサー獲得、
放映権販売、商品化権の販売。
後半の5年は編成担当、
いわゆるゼネラルマネージャーの仕事をやってました。
前半の5年は、これは野球でもサッカーでもコンサートでも同じですよね。
権利をどうやってお金とした対価をもらえるようにするか。
後半は本当に野球。選手、監督、コーチに声をかけてチームを作って。
そして場合によってクビを宣告しなきゃいけない時もあるし、
あるいは招聘することもあれば。それからあのチームの在り方。
私がやった仕事の中で少し貢献できたかなと思ってたのは
3軍制っていうのを球界で初めてスタートさせる業務を私が担当させて頂いて。
やりがいはものすごくあるんですけど、ストレス溜まりますね。
基本的に嫌われ役憎まれ役はフロントですから。
プロ野球は特にそういうところがあって、
「あちらの背広組」なんて言われたりして。
現場に入っていくと「介入」っていう言葉を使われたしますね。
 

-メディアへの対応はどうでしたか?

もう本当嫌になっちゃった。
とにかく私を悪者にするのが楽しそうだったなぁ。
でも舞台に立つのは選手なので。
選手を悪者にしても業界全体としていいことないんですよね。
まあこちらはいじめられる役ばっかりだったんですが、
でもそれが役割。王会長からよく言われましたよ
「骨は拾ってやる。嫌われ役ってのはいなきゃいけないんだ」って。
王会長にはよくフォローしてもらいましたね。

 

−リクエスト曲は?

ドリフのビバノン音頭 / ザ・ドリフターズ

私、加藤茶派だったんですよ。
この選曲は志村けんさんが亡くなったから…というんじゃなくて、
やっぱドリフ大好きでね。
途中でもひょうきん族に寝返ったのが私の悔いの一つです。

 


そんな小林至さんに、金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!

『金子の深堀り!』

 

日本は中国に抜かれたとはいえ未だ世界3位の経済大国じゃないですか?
1位アメリカのメジャーリーグの選手の給料や、
球場環境だったりが日本より上だというのは仕方がないことかなと納得も出来るんです。ただ体感的にはメジャーリーグと日本の差が人口比の2対1より差がある気がする。
さらにはサッカープレミアリーグ、リーガエスパニョーラでは
30億、40億、あるいは200億っていうお金が飛び交っている。
スペインのGDPに比べたらかなりの高額。
これだけの経済大国にもかかわらず日本のスポーツは
なぜこんなにも経済的にプアーなんですか?

日本人ってスポーツ嫌いじゃないですよね。
でも日本でスポーツは一段低く見られている。
で見られたまんま、政治的な力を持って、
そして法律面や予算とか、政治力とか、
力をどうやってつけて行くかっていう運動をやらなかったんだろうなと。
元々、スポーツは軍人と文人。
武官に世の中を仕切られたくないって
文人の常じゃないですか。文官寄りに世の中を仕切っていくと。
スポーツはまあいいようにされてるんですよね。
文化予算とスポーツ予算って国の予算ですけど、
どっちも多くはないんですけど。
大学におけるスポーツの地位だって課外活動じゃないですか?
宣伝のツールには使っても、それに見合ったきちっとしたと
ポジションを与えているか。何か言えば課外活動だと。
プロスポーツの給料も少ないですよね。
大リーグの年俸がね平均5億円で、
日本のプロ野球の1軍選手の平均年俸がね9000万台。
Jは3000万?プレミアとかの平均年俸が確か3億ぐらいでしょう?
スポーツにはそれぐらいの影響力。
これだけ筋書きのないドラマってスポーツしかないじゃないですか。
どんな面白いドラマだって筋書きがあるし。
ライブで筋書きのないドラマが展開されるスポーツほど面白いものはなくて。
グローバルコンテンツなのに。日本はそこに残念ながら遅れたまま。

 

-Jリーグ、プロ野球のコンテンツを世界に売っていこう意識も薄いですよね。

世界に売っていくっていう気概もそうですけど、
まずは日本の国内でね。もっと競争を仕掛けて大胆に。
ただそれが難しい。
日本の場合メディアと深く関わりすぎてるからなぁ。

 

-過去に日本がオリンピック招致などを除くと
スポーツを発展させようと力を入れた印象はないですよね。

例えば、アメリカですとねスタジアムって自治体が作るんですよね。
MLBの自前だという印象があるかもしれませんが、ほとんどが市営球場、
郡営球場、州営球場なんですね。
自治体が作ったスタジアムをほとんどタダでプロスポーツが使える。
それにはいくつか要素があって一つが政治力。
プロスポーツ団体は全部プロのロビイストを雇っていて、
連邦議会、衆議会、市議会にちゃんと御用議員を送っている。
そして御用学者を抱えている。御用学者が経済効果っていうのを書いてね。
日本は全部いない。スポーツ界が抱えている議員もいなければ。

 

-自治体が税金を使ってスタジアムを作るということに
反対意見の方が多くなっちゃう地域多いでしょうね。

多いでしょうね。
それとやっぱり日本のプロスポーツが
公共性を獲得できていないっていうのもありますけど。

 

-これは日本のスポーツの頑張りが足りてないですよね?

ある。そこでやっぱり日本のスポーツが、
地域でも企業でもどっちでもいいんですけども、
「あっていいものだよね」っていうのをね。
アメリカも結局、いま税金で支えのおかしさっていうのを
経済学者みんなレポート書いてるけど。
でもね地域に一個なきゃまずいだろって。
それはお金じゃないですよね。
日本はねそれを経済学で切り取るだけで、
あるいは力技だけでいずれにしても洗練されてないんですよね。
全てにおいて学術的にも学問的にも猛烈に遅れているし。
そしてその制度の整備も遅れているし、スタジアム自体もおそ松、おそ松。
あれ競技者目線なんですよね。
だって野球のスタジアムの一番下にね関係者室があるのって日本だけですよ。
一番いいとこってお客さんのものに決まってんじゃんですか?

 

-甲子園は違いますけどね。

そう。甲子園だけだ!
甲子園は地中に潜ったところから顔だけでる。
なんで甲子園のモデルがありながらみんな下につくっちゃうんだろう。
そこからしてお客さん目線じゃない、
やっぱり日本のプロスポーツは全体がプロじゃないなと思いますね。

 

-それを変えるためにどうしたらいいと思いますか?

運営する人たちに優秀な人が入ってもらいたいですね、
そのためには簡単にいうとお金を作んなきゃいけないんですよ。
それから学問としても、もう少し発展をさせる。
今までは体育の延長としての学問でしかなかったんですけど、
なんせスポーツがビジネスなったのって
1984年ロサンゼルスオリンピックで。まだ36歳ですね。
アメリカでも36歳なんですよ。経営学っていうのは19世紀だし。
数学なんてのは一万年とかそういう話でしょ?
それに対してこのスポーツの経営学あるいは
スポーツマネジメントの世界ってものすごく新しい世代なんでこれから何ですが、
やっぱり日本に今大事なのは、日本は明治維新以降、
全部が正しいわけじゃないけども、
海外のいい部分を取り入れてきましたよね。
日本になくて世界にあるものっていうのを
プロスポーツの世界は謙虚に考えないといけないですね。
やっぱりアメリカ、ヨーロッパ。
ヨーロッパのサッカーだって結局アメリカのスポーツビジネスを真似して
そして成長してきたわけですから。
日本も、もっと素直にね学んでいってほしい。
そこで一番はね見せるスポーツは競技者目線でやってはだめなんですよ。
お客様目線でやらないと。
こういったものねあの学問として発信をしていきたいなと思ってますけどね。
微力だなあ。

 


そんな小林至さんが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?

「希望」

これなんでかって言うとね、
2000年にねクリントンの生まれた家に行ったことあるんですよ。
アーカンソー州ホープっていう貧しい寒村なんですよ。
人口の1/4が貧困線以下。びっくりしますよ。
街の名前がホープっていう街なのにとっても貧しくて。
産業もスイカ畑ぐらいしかない。
そんな街で生まれたシングルマザーの元に生まれたビル・クリントンはその後、
ご存知の通りアメリカ合衆国・大統領まで上り詰めるんですね。
シングルマザーで、そのお母さんも食べられないから
介護士の免許を取るためにビル・クリントンをおじさん、おばさんに預けて。
そこで育って。極貧の中で育って家の周囲を見たらハッときますよ。
こんな街こんな環境で育って。もちろん才覚はあったんですよね。
高校まで公立の学校に行って、
そして奨学金を持って私立のジョージタウン大学に入学して
そこから彼のサクセスストーリーが始まるんですけど。
この環境でって考えた時にアメリカの奥深さと
やっぱり希望を持つことの意味ってこういうことなんだなと。
どんな環境にあったって、希望を捨てなければ
いいことあるんだなと思わされたんですよね。
2000年っていうのは私、アメリカの会社をクビになりましてね。
家族全員で犬を連れて全米を放浪の旅に出ていたんですね。
その途中に立ち寄ったんですよ。
日本のスポーツは、伸びしろいっぱいですよ。伸びしろしかないな。
これだけ経済が豊かなのに、こんなにおそ松な環境で、
人々は決してスポーツが嫌いなわけじゃない。あとは上を見ていくだけです。

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