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萩原智子さんが中学時代の恩師にもらった己に勝つための言葉

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今回のゲストは、
2000年のシドニーオリンピック・競泳日本代表
萩原智子さんです。

 


萩原智子さんのプロフィール】

萩原智子さんは、1980年生まれ、山梨県出身。
「ハギトモ」の愛称で親しまれている。
 9歳で水泳を始め、山梨学院大学附属高校時代は、
インターハイの200m背泳ぎで3連覇を達成。
1998年のアジア大会では、
100m、200m、400mメドレーリレーで3冠。
2000年のシドニーオリンピックでは、
200m背泳ぎで4位、200m個人メドレーで8位と、ともに入賞。
トップスイマーとして活躍する中、
24歳で一度引退、
29歳で復帰され、30歳で日本代表に返り咲いた。
2012年のロンドンオリンピック選考会後に引退。
現在は、一児の母として子育てをしながら、日本水泳連盟理事、
2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会アスリート委員

 



黄金のキャリアですね?

全くそんなことないですね。
周りからはそういうふうに評価されることが多いんですけど、
私自身としては谷ばかりの競技人生。
良いことの方が少なかったなぁって思いますね。
怪我もしたし、病気もしたし。
目標としてたオリンピックでメダルは取れなかったっていう。
なんとなく悔しかったなっていう人生だったなって思います。
 
 
18歳でアジア大会3冠を達成した頃はどんな風に思っていたんですか?

怖いもの知らずだったと思います。
頑張ったら頑張った分だけ結果が出る。
もう周りを気にせず自分の好きなように頑張ったら結果が出た。
すごい楽しかったですね。
 
 
それがいつ変わった?

やっぱりオリンピックだったかなって思いますね。
シドニーの前ぐらい。
アジア大会で注目されて、
ビックリする位マスコミの人に「わっ」て来てもらったんですね。
それが私の中では耐えられないというか。
「萩原智子さん像」みたいな、みんなが理想像を作ってくださって、
「そうじゃなきゃいけないんだ」って思ってしまって、
本当の自分がどこにいるのか分からなくなってしまったんですね。

  
 

「美人スイマー」としても話題になっていましたね。

ありがたいですね(笑)。
自分ではそんな風に全く思ってなかったし、
ただ私としては水泳選手として頑張っているっていう捉え方をしていたので、
どうして「ハギトモスマイル」とかって言葉もできたりして、
「笑わなきゃいけないの?」みたいな。
無理して笑わないといけないのかなっていう時期もありましたね。
「みなさんハギトモスマイルです!」って紹介されると、
ぎこちなくなっていくみたいな。
いつしか自分じゃない水泳選手を演じているみたいな感じになってて
本音を言えなかったですね。
  
  
当時はそうとうメンタルやられた?

やられましたね。
「メダル取れなくてどうすんだ」「国の税金使ってるんだろ!」って
空港で知らないおじさんに言われたりしたこともあったので、
オリンピックってすごいところだなって思いましたね。
 
 
北島康介選手もシドニー では4位で、メダルは取れませんでした。

実は選手村から空港までの帰りのバスでたまたま隣になって、
「これからどうするの?」って話になったんです。
「もったいないよ!一緒にがんばろうよ」って言ってくれたのと
「2008年で金メダルを取るから」って言っていたんです。
彼は2000年シドニー五輪で4位だった直後に、
4年後のアテネを通り越して、
8年後の北京で金メダルを目指していたんです。
私、鳥肌が立っちゃって。それがすごい印象に残っていますね。

 

萩原さんはメダルまで0.16秒でした。
いまでも夢に見るんです。
水の冷たさ、会場のほこりっぽい空気とか、香りとか声援とか。
電光掲示板に4位っていう数字を見たときのスロープを持っていた感触とか、
全てがリアルに。
すごい疲れた時に見るんですよね。
 
 
4位っていう結果を見た時の感情は?
「やっとオリンピックが終わった」っていう感情の方が大きかったもしれない。
苦しかったんですよね。まったく楽しくなくて。
でも「悔しかった」とか「いまでもメダルが欲しい」とか
言えるようになったのが10年かかりましたね。
本当にいい経験だったって今では思えるようになりました。
 
  

シドニーオリンピックを終えて「次」と思えるようになったのはいつから?

3、4ヶ月後ですかね、ずっと家にいましたし。
ファンの方が手紙などをくれて、すごい量なんですけど全部よみました。
それで、一番心に響いたのが
「60歳代のばあばより」って書いてくださったお手紙で。
自分の近況報告だけだったんです。
「頑張れ」「残念だったね」とかじゃなくて。
「萩原さんの決勝の背泳が美しかったです。
私は60年間プールに入ったことがなかったんですけど、
今近くのスイミングスクールに入会して泳いでます。楽しいです」っていう。
それだけで私はすごい救われたんです。
それがターニングポイントだったんだなって思います。
意味があった。
誰かにとって私が泳いだ意味があったんだんだなって思わせてくれたのが、
このお手紙で。
もう一度誰かに楽しいと思わせる水泳をやろうって思ったんですよね。 
 
    
−リクエスト曲は?  

Abbaの「Dancing Queen」 

ある方が私のテレビの企画を作ってくれた時に、
私のテーマソングを選んでくれたのがこの曲で。
それから気に入ったんですよね。
どんな試合会場でも私が会場で姿を現すとこの曲が流れたんです。
だからすごいテンションが上がりました。


萩原智子さんに、金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!
『金子の深堀り!』
 

24歳で一度引退を決意したきっかけは?

もうやりきったなって思ったんですよね。
24歳の日本選手権が、
アテネオリンピックの選考会で優勝できたんですけど、
基準を突破できなかったので、落選しちゃったんです。
いつもだったら「悔しい」とか、
「次の目標」とかが頭に浮かぶんですけど、全く浮かばなかったんです。
これは辞め時だなって。
だから「すぐ辞めます!」って言いました。
その時のインタビューで私はスッキリしすぎてたので
「辞めます」って言えたというか。
会場は「え〜!」って感じだったんですけど。
ずっとやってきたコーチにも「お前はすげぇな!」って言われたんですけど、
私はどこか冷静だったんですよね。
そこできっぱり辞めましたね。
 
 
-そこまで燃え尽きてなぜカムバック?

たまたまマスコミの仕事をさせていただいて。
北京オリンピックで現地に行かせていただいて、
開会式を見てすごい感動したんです。
聖火が灯った瞬間に涙が出たり。
北京の開会式ではオリンピックのマークが浮かび上がるシーンがあるんですけど、
「なんてかっこいいんだろう」って号泣して。
「オリンピックってかっこいい」って、
もう一度そこを目指したくなって。
だから帰ってからは大変でした。
家族もいたし、どういう風に話そうとか。
みんなは今できることを頑張れって言ってくれたんで。
前向きにスタートしましたね。
 
 
-若い頃のタイムを超えなきゃいけないですよね。

でも、超えられたんですよね。
それは良かったなって。
そこがすごい自信になったし、
2回目の水泳人生でやっと水泳と向き合えたというか。
本当の意味で水泳の楽しさ、難しさを実感できました。

 

-ロンドンオリンピックは行けると思っていた?

行けると思っていました。そんなに甘くはなかったですね。
ちょうど選考会前に、病気にかかってしまったんですよね。
治療をしないと不妊症になってしまう可能性があると言われて。
競技人生と終わった後の人生を天秤にかけなきゃいけなくなって。
そこで後者をとって手術をしたんですが、
そこで「オリンピックどころではないな」って思ってたので。
半分消えかけてたんですけど、
退院したあとに食事をしている時に主人から
「いつから練習始めるの?」って言われて。
私は「手術してどうなるか分からないのに、練習どころじゃないでしょ。
子供のことも考えないといけないし」って言ったら
「カッコ悪くてもいいから自分が始めたことを途中で投げ出すのはやめなさい。
最後までやり切った方がいいよ。全面バックアップするよ」
って言ってくれたんです。
そこからほぼほぼ戻ってこれて、臨んだので自信もあったんですけど、
オリンピックは甘くなかったですね。
難しいんだなって改めて感じました。


そんな萩原智子さんが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?

『克己』
己に勝つ、自分の弱い心に負けないという意味なんですけど。
中学時代の恩師にいただいた言葉で、今でも目標にしています。
ライバルに勝つということよりも、
自分自身の心に打ち勝つことの方がよっぽど難しくて。
自分に嘘をついたりしますし、その時にダメだなって。
自分に正直に、自分に打ち勝たないといけないなって思いますね。
この先生とは地元に帰ると今でも飲んだりするんですよ。
なんか困ったことがあると先生に相談したりします。
すごくいい先生で、親身になってくれて。
怒るときは怒るし、褒めてくれる時は褒めてくれる。
今でも「先生」として接していますね。

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