今回のゲストは、
日本初のプロラクロスプレーヤー、
山田幸代選手です。
【山田幸代選手のプロフィール】
山田幸代選手は、1982年生まれ、滋賀県のご出身。
中高生時代はバスケットボール部に所属、
京都産業大学進学後にラクロスをスタート。
大学2年の時に年代別日本代表に選出、
卒業後の2005年、日本代表としてワールドカップに出場、
5位入賞に貢献。
某大手通信会社で仕事と選手を両立して活動していたが、
2007年にプロ宣言をして日本人初のプロ選手になると、
翌年、オーストラリアリーグに移籍。
2017年、イギリスで行われたラクロス女子・ワールドカップでは、
オーストラリア代表として4位。
ワールドゲームスでは銅メダルに輝いた。
現在もプロラクロスプレーヤーとして活躍される他、
世界ラクロス協会の選手会メンバーなどを務めている。
–大学進学後にラクロスを始めたそうですが、なぜ?
高校まではバスケットボールをしていて、
大学に入ったらバスケをするつもりが無くて、
バスケ部が無い大学を選んだんです。
はなの大学生がしたいなと思ったんですけど、
情熱を懸けるものがなくて、ただ日々過ごしていても仕方ないなと。
で、ゼミの友達がラクロスをやっていて、
「日本代表になりやすいよ」と言われて興味がでて。
そこからですね。
–すぐに頭角を現わされたんですか?
私は半年くらい遅かったんです。
私だけコートの中でバスケの動きをしている感じです。
人と動きが違うので、監督に目を付けられて、
関西の選抜メンバーに選ばれたりして。
スティックでキャッチも投げることもできなかったんですけど(笑)
–どのあたりからラクロスで上を目指そうと思ったんですか?
私は、もともと保母さんになりたかったんです。
子供たちと出会ったときに
「大きくなったら何になりたいの?」と聞いた時に、
ラクロスプレーヤーになりたいって答えを
聞いたことが無かったんです。
こんなに面白いラクロスを子供たちに伝えたい、
それが、私の大きな夢に変わったんです。
いまも私の軸にあります。
そのためには、日本が強くなったら、
自分が上手くなったら
子供たちに知ってもらえるんじゃないかと、
そういう思いから上を目指すようになりました。
–そもそもラクロスってどんなスポーツなんですか?
ラクロスはフィールド最速の格闘技と言われるくらい
スピーディーで激しいスポーツです。
両チーム10人で、サッカーフィールドと同じくらいの広さで行います。
特徴的なのが、ゴールが1.83m×1.83m の正方形で、
エンドラインより、少し中に入っているので、
アイスホッケーのようにゴールの後ろを使えます。
ボールは硬質のゴムで、
それをスティックを使って、シュートを決めあうスポーツです。
–どのくらいのスピードが出るんですか?
男子だとシュートで170~180キロくらい出たり、
この前、最速スピード大会で、
190キロが出たみたいですけど。
–プロという選択肢が芽生えたのは?
2007年にプロ宣言させてもらったんですが、
その前年、「プロにならないか?」と声をかけられたんです。
2005年にW杯に出場して、結果が出なくて、
自分の一番弱い部分を見たときに、
トップを目指すのではなく、普及活動に徹しようと思ったんです。
でも、帰国後、普及活動をするなかで、
スポーツショップ「ギャラリー2」の社長さんから
「ラクロス選手になりたいと言ってもらいたいなら、
ラクロスで生活していないと夢にならないんじゃないか」と。
それで背中を押してもらって、
スポンサードアスリートという形で
「ギャラリー2」と契約させていただきました。
−リクエスト曲は?
Bruno Marsの「The Lazy song」
私がオーストラリアで代表にチャレンジしているときに、
ずっと聞いていた曲なので。
自分たちで隣町に車で8時間くらいかけて行っていたんですが、
その時にずっと聞いていたので選ばせていただきました。
山田幸代選手に、金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!
『金子の深堀り!』
−日本で最初のプロラクロスプレーヤーになった山田さん、
オーストラリアに渡られましたが向こうは全員プロ?
オーストラリアもプロ選手はほとんどいなくて、
初めはお金ももらえずやっていて、
私が4年目くらいからプロとしてやらせてもらったので。
お金をもらってやっていたのは私だけでしたね。
アメリカには、3年くらい前にプロリーグができたんですけど。
−オーストラリアでラクロスはどこで行われていたんですか?
オーストラリアは、見るスポーツとするスポーツで分かれていて、
ラクロスは、するスポーツで、
主にクリケット場でやっていましたね。
−レベルは?
オーストラリアは、世界でもトップレベルなので、
日本とは全然違いました。
−でもやれた?
初めはパスももらえず、英語もできなくて、
何でお前がいるんだって感じで卵ぶつけられたりしました。
やっぱり、ファンの人たちも、
アジアの選手がトップの14人のひと枠に入るのに
あまり納得しない人もいましたし、
プレーで納得させるまでは、自分を表現するのは難しかったですね。
−茨の道でしたね?
よく泣きましたけど、
いったん中断って道が無かったので、
自分が夢を叶えるために、
子供たちにラクロスを伝えたいと思ってきているので、
前に進むしかなかったですね。
そんな山田幸代選手が今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?
『happy』
チャレンジの中で、苦しいこと、悔しいこと、悲しいこと
たくさん話をさせていただきましたけど、
でもその次に、必ずハッピー、笑顔になれる瞬間があって、
アスリートがよくいうゾーンてあるんですけど、
チャレンジしている大変な中の、
ハッピーゾーンがあるなって思っていて。
私の中でハッピーを探すことが楽しかったんですね。
慣れていったり、経験していくと、
ハッピーが増えていく、それが私の糧になっていきました。
だからシンプルな言葉ですけどメチャクチャ好きですね。