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櫛部静二監督が大きな挫折の中で大事にしていた言葉

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今回のゲストは、
現役時代は早稲田大学、
エスビー食品などでトップランナーとして活躍。
現在は、城西大学男子駅伝部で監督を勤めていらっしゃる
櫛部静二さんです。

 


櫛部静二監督のプロフィール】

櫛部静二監督は、1971年生まれ、山口県宇部市の出身。
宇部鴻城高校3年の時に、インターハイの3000m障害を、高校新記録で優勝。
卒業後は、早稲田大学に進み、箱根駅伝では、
1年生ながら、エースが揃う「花の2区」に出場、
しかし、体調不良によるブレーキというアクシデントに見舞われた。
この経験をバネに成長を遂げ、翌年の全日本インターカレッジの1万mで優勝、
3年の箱根駅伝では1区を走り、区間新をマークして区間賞を獲得、
総合優勝に大きく貢献。
大学卒業後は、実業団の名門・ヱスビー食品に入社、
全日本実業団1万mで優勝するなど活躍。
2001年には、創部された城西大学駅伝部のコーチに就任、
監督就任1年目の2009年には、
大学初の箱根駅伝のシード権獲得に貢献。
現在は、学生の指導やマラソン解説など精力的に活動している。



–なぜ3,000m障害を?陸上の中でもマイナーといいますか。

高校時代は1年の頃までは強い選手では無かったんです。
項王の先生が奇想天外というか、
なんでもやらせたがる先生で、
800m、1500m、1万mまでやって、
色々やった中で、一番上手く行ったのが障害だったんです。
それも2000m障害でしたね、2年の時です。
トントンと行って、初の国体で優勝しました。
 
  
–駅伝はやられてなかったんですか?
駅伝が強い高校では無かったんですよね。
ほとんど出てませんでした。年に1回くらいでした。

  
 
–それが超名門・早稲田大学に入って駅伝を始めてエースになっちゃう?

高校3年の時に、障害もやりながら、1500mも1万mもやっていましたね。
1500mは、3分52秒、1万mは、29分11秒です。
当時は、1万mの日本高校記録でした。
いまは、28分前半ですよね。
その記録も10年くらい前の記録だと思います。
 
 
–長距離はある程度自信を持たれていた?
そうですね、2000m障害。3000m障害、
フラットな1万mの日本記録は持っていました。
 
  
–子供の頃から足は速かったんですか?
速かったです。
マラソン大会は小学校1年からずっと1番でした。
  
 
–早稲田に入ってもそれほど気後れすることなく?
そうですね、もう全くと言っていいほど。
先輩にも負けなかったですし。
入学する前から瀬古さんにはちょっと期待されていたので、
ちょうど原田と竹内と、三羽ガラスで
早稲田の黄金時代を作ろうという雰囲気はもう入学前からありましたので。
 
 
–エース区間の2区は特別なんですか?
あの当時は、全くと言っていいほど、箱根駅伝に興味が無かったんです。
箱根駅伝を競技としてこうやりたいっていうのは、
そんなに無かったんです。
トラック競技やマラソンとか、オリンピックに公式種目を
本筋だと思っていました。
本当に先輩方には申し訳なかったですけど、箱根を舐めていましたね。
 
   
−リクエスト曲は?  

尾崎豊の「存在」

中学時代から尾崎豊さんが好きでした。
凄い詩を書くなと、子供ながらに思っていましたね。


そんな櫛部静二監督、金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!
『金子の深堀り!』
 
  
−大学1年の箱根駅伝、体調を崩した理由はお刺身だったんですよね

この話は、色んなところでしているんですが、
大晦日の朝に、前日の差し入れ、どなたかがしてくださったものがあって、
寮母さんが冷蔵庫から出して、持ってきてくださったんです。
一切れぐらいはと、手をつけたんです。
その日の10時ちょっと前ぐらいですかね、
上から下からも全部、その日は1日はダメでした。
 
  
−食中毒じゃないですか
おそらくそうだったと思います。
それでも練習に行かなければいけないので
練習に行ったんですが、
瀬古さんから「櫛部、調子が悪そうだな」と。
すぐ病院に行けと。
近くの病院で半日寝込みました。
 
 
−調子は戻ったんですか?
元旦に試し走りをしました。
瀬古さんのお宅に行って、うどんを食べたんですけど、
食欲は戻ってましたし。快調に走れました。
ただ、お腹は痛かったです。
で、瀬古さんから「行けるか?」と聞かれて
「行けます」と答えました。
今となっては、そういう選手は使わないのが鉄則ですが、
当時は、前例もなかったですし。
 
  
  
−2区で待ってて、トップでタスキをもらったんですよね?
はい。瀬古さんには申し訳ないんですけど、
1キロ3分ペース、ゆっくり行けと言われてたんですが、
全く無視して、飛ばしすぎたんです。
興奮していたんでしょうね。
13キロくらいから、おかしいなと。
ただ、もつだろうと。
これはまずいなと思ったのは、18キロくらいですね。
そこからは記憶が飛んでいきましたね。
 
 
−そこからフラフラな状態ですよね?
本当に、しでかした…という思いでしたね。
仲間の顔を見るのも辛かったです。
やっぱり特に4年生に申し訳ないと、強く思っていました。
終わってからもずっと引きずっていましたね。
 
 
−切り替えられたんですか?
それ以降、自信満々だった僕が、自信がなくなってたんですよね。
3年4年になって力を付けても、
心の中でずっと自信がない状態がずっと続きました。
社会人になってもずっと続きました。
色んなところで「ブレーキの櫛部」と言われるようになったんです。
またあの状態が後起こるんじゃないかと、
トラウマが自分の中に存在して、それが競技を終える近くまで、
ずっと残ってました。
 
 
−お刺身が原因だということを話したのは、随分後になってからですよね?
なにかのせいにするのは、
スポーツ選手としてはよろしくないって言う、
寮母さんの好意も無駄にはしたくないので、
随分の期間話すことはなかったですね。

  


そんな櫛部静二監督が今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?

『天才は有限、努力は無限』
 
苦しい時代、競技人生が続いたんですが、
高校時代から仲良かった先輩が、
部屋に瀬古さんのボストンマラソンのポスターを貼っていて、
そこに書いてあった言葉がこれなんです。
失敗を経て、上手く行かないことが多くなって、それでも自分だと。
それを打開するにはトレーンングしかないと。
人よりも強くなって見返すという思いでやっていました。
自分はもう天才ではないと。
それまで天才と思っていたわけではないですが、
自信、うぬぼれはあったと思います。
自分は、努力していかなければならないと、
他の人よりたくさん練習していましたね。
必ずやまた強くなってみせるという思いでやっていました。

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