今回のゲストは、
プロ野球、中日・西武・阪神で活躍され、
東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督を務めた、
田尾安志さんです。
【田尾安志さんのプロフィール】
田尾さんは、1954年大阪生まれ。
76年、同志社大学卒業後、
ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。
この年、新人王を受賞。
広角に打ち分けるシュアなバッティングで「安打製造機」と呼ばれ、
3年連続で最多安打を打つなど、中日・西武・阪神で活躍。
91年に現役を引退。
2005年、50年ぶりの新規参入球団、
東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督に就任。
監督退任後は、野球解説者。
今年1月には、舞台デビューも果たした。
現在は、去年7月に誕生した沖縄初のプロ野球球団
「琉球ブルーオーシャンズ」の
シニアディレクター 兼 打撃総合コーチを務めている。
–田尾さんの少年時代のお話、運動神経は?
特別足が速かったわけでは無かったですね。
高校の野球部は弱かったですが、
それでも、真ん中より遅い方でしたね。
–リトルリーグ時代のポジションは?
ファーストです。
中学でもファーストで、時々投げる感じで。
打つ方は、足も速くないのに1番でした。
1番ファーストですね。
–強豪高校から引く手あまたじゃなかったですか?
なんチームからか来てくれたんですが、
母親が、野球がだめになった時に大学に行けないのは辛いと。
それで普通の公立の高校、泉尾高校にしたんです。
担任の先生に「野球部ありますか?」と聞いたら、「ある」と。
で、高校に入ったら、3年生が3人、2年生が2人、
5人しかいませんでした。
–田尾さんが入学した年、1年生は?
同級生が20人入部して、すぐ10人辞めて、
10人残ったんですが、
野球をやったことない人が5人でしたからね。
案の定、1年の夏の大会は、17対0で負けました。
練習試合も断られましたからね、
それが僕のエネルギーになって、
ピッチャーをやりだしました。
–素晴らしいコーチや監督がいたわけでもないんですよね?持ち玉は?
僕しか速い球を投げれるのがいなかったんですよ(笑)
我流でやりだしました。
持ち玉は、フォークはありました。
真っ直ぐ、カーブ、フォークですかね。
コントロールが悪くて、
10個三振を取っても10個フォアボールを出す、
そんな感じでしたね。
–甲子園は考えてました?
全く頭にないです。
強い高校を倒してやろう、それだけですね。
–大学は考えていたんですか?
母親は、高校を卒業したら働いて欲しいと思っていたんですが、
何をやるのか描けてなかったので、
なんとか大学に行こうと考えていました。
家が裕福ではなかったので
お金が無いなら自分でスポンサーを見つけて行こうと思っていました。
そしたら、田舎に猫の額ほどの土地があって、
それを売って、行かせてくれました。
実は、高校の時に、広島カープがスカウトに来ていたらしいんですよ。
担任の先生も、大学に行くと思っていたから伝えなかったと。
–もしも先生が伝えていたら?
ちょっと迷いましたね。
大学を卒業するときも、
広島は、僕をいの一番で指名すると言ってくれていたんです。
「レフトのポジションを空けて待っていますと」
でも、その前に中日ドラゴンズに指名されて、
ドラゴンズにしたんです。
−リクエスト曲は?
ヨウスケの「ブルーオーシャン」
僕が、シニアディレクター 兼 打撃総合コーチを務めている
琉球ブルーオーシャンズの応援歌ですね。
ヨウスケは息子です(笑)
そんな田尾安志さんに、金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!
『金子の深堀り!』
−同志社大学では、ちゃんと授業も出ていたそうですね?
土曜日、日曜日に試合があって、
土曜日も授業があったので、僕は授業に出ていました。
練習も、授業に出てから参加していましたね。
−ポジションはピッチャーですか?
4年までずっとピッチャーでした。
でも、大学3年の秋に、ホームにスライディングして肩を伸ばして、
それから1年間くらい投げられなくなったんです。
その時に、
「もう少し野球をやりたいな、プロでやりたいな」
と思うようになりました。
−この球団に行きたいなというのはありました?
ありましたよ(笑)
やっぱり、セ・リーグですね。
G、T、Cですかね。
Cは、高校のときからスカウトに来てくれていた恩義がありましたし、
Tは地元だし、Gは全国的だし。
−子供の頃は誰のファンだったんですか?
僕は長嶋さんのファンでした。
ジャイアンツどうこうよりも、長嶋さんがかっこよくて。
−でも、プロならどこにでも行くつもりだった?
パ・リーグであってもどこにでも行くと、
それで社会人野球は全部お断りして、
ドラフトを待ちました。
そしたらDになって、良かったなと。
まずはセ・リーグですし、
大阪にいると、GとTの話題しかなったので、
Dのこともよくわからなかったですからね。
−プロに入る時はピッチャーで?
いや、プロに入る時は諦めていました。
スピードが落ちてしまって。
3年の春と秋には首位打者を取ってるんです。
春のリーグでは打率.548で、
いまも最高打率でまだ残っているんです。
−田尾さんは、真っ直ぐに強いですよね?
真っ直ぐで、これは速いと感じるピッチャーっていませんでしたからね。
大学4年の時、日米野球の時のアメリカのピッチャーです。
プロでは江川ですね。
一番伸びのあるピッチャーですね。
タイミングは遅れないんですが、
自分が思っている所よりちょっと上に来ているんですね。
だからファールチップになるんです。
−名だたる豪腕ピッチャーと対戦しても、これは速いとは思わなかった?
野茂も佐々木も立ちましたが、
速いという感覚は無かったですね。
フォークボールがいいピッチャーという印象でしたね。
そんな田尾安志さんが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?
『退路を断て』
大学の監督に言われた言葉です。
プロに行く契約の時に、一切の付帯条件をつけるなと。
お前と1年間、選手として契約をするのだから、
その中で認められなかったら辞めろと。
だから、辞めた時になにかしてくれますか?ということは絶対にいうな。
そんなことを期待している選手には、ろくなやつはおらんと。
それで、ここで頑張るしか無いんだと、野球に専念できましたね、
あの時言ってくれて良かったと思います。