今回のゲストは、
日本初のプロライフセーバー、飯沼誠司さんです。
−色々持ってきていただきましたが、まずはキャップですね?

ライフセーバーの必需品です。
コンペティションキャップといいます。
JAPANは白と赤。
ゴム製ではなく、布ですね。
意外と乾きやすいです。
紐がないと波に巻かれた時に取れてしまいますので、
顎できちんと止めると。
−赤いキャップは?
こちらは、館山サーフクラブのコンペティションキャップですね。
燃えるような赤。
館山は、海に太陽が沈む、
富士山にはダイヤモンド富士が見える、
素敵なロケーションなので、
そこからインスピレーションを受けました。
−ピンク色のタンクトップは?
ラッシュガードの素材なんですが、
ここ10年くらいでライフセーバーは必ず身に付けなければいけなくなりました。
オーストラリアで10代のレースの時に、
子供が流されて発見が遅れたので、
視認性が高いものを身に着けないと。
カラフルな海で一番目立つものを付けようということで、
日本はこの色になりました。
オーストラリアは、蛍光の緑やオレンジが多いですね。
−もう一つの紺と青のは?色は目立たないですね?
ワールドシリーズの時のジャパンの名前入りです。
90年代でそこまで事故が多かったのと、
プロの安全管理は自己責任って感じなので。
プロには厳しいんです。
−白いサンダルは?

リカバリーサンダルといって、疲れをリカバリーするんです。
ライフセーバーは一日中立っていたり、走り回っていたり、
過酷な活動なので、こういったものに頼りたくなるんです。
一日中炎天下で、僕はいまのポジションだと、
なにか重大事故が起きた時にすぐに行けるように、
沖で待機していることが多いんです、
ジェットスキーに乗っていたりして。
これを積んでおけば、岩場に上がった時に足を守ったりできますし、
ライフセーバーにとってサンダルは必須なんです。
3000円くらいですね。
−リクエスト曲は?
Microの「Yukiyanagi 雪柳 ~We’re watching you~」です。
NPO法人キッズセーバーという団体の理事をやっているんですけど、
そこで、子どもたちに色んなことを発信することが多いんですけど
シンプルだけどメッセージ性が高いこの歌がいいなと思って。
子どもたちだけでなく、大人にもいいなと思っています。
そんな飯沼誠司さんに、金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!
『金子の深堀り!』
-競技のライフセービングの監督も務めていらっしゃいましたが、
監督ってどんなことをするんですか?
2年に1回ライフセービングの世界大会があるんです。
個人のスキルは、館山のような各クラブにある程度委ねるんですが、
チーム競技ってたくさんあるんですよ。
4人で砂浜を走るビーチリレーとか、リレーがたくさんあるので、
ハイパフォーマンス集団を作って、育成して、
2年体制でどれだけいいチームを作れるかが監督のミッションですね。
-日本の強みは?
SERCというシミュレーション・エマージェンシー・レスキューですね。
競技4人で1チームを構成して、競技時間は1分30秒から2分で、
選手は、競技前にロックアップエリアと呼ばれる場所に
隔離され目隠しされた状態からスタートして、
10項目から12項目ある事故に直ぐに対処しなければいけない競技があるんです。
ボートが転覆した状態でその下にマネキンが沈んでいたり、
プールサイドで喧嘩している人など。
英語でアプローチしなければいけない、
カムダウン(落ち着いてください)と言わなければ加点されないとか。
そこが日本チームはものすごく強いです。
僕の時も銀メダルをとりました。
瞬発的な判断力とチームの総合力、
それをどれだけ上げるかが監督のミッションですね。
-世田谷と館山、拠点が2つありますがそれぞれ何をされているんですか?
世田谷では、約10年前から公共施設を使った
ライフセービングを取り入れた
スイミングのプログラムを作って、
幼児から高校生まで溺れない力を伸ばす、
水泳もきれいに泳げるような指導をしています。
館山市は、内房から外房にかけて差し掛かっている場所なんです。
ライフセーバーの育成として、
初心者は内房で、エキスパートは外房に出て
実践的な経験を積むことができます。
ジュニアから育てることができることを目標としていますね。
やっと地域の人達が育ってきました。
そんな飯沼誠司さんが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?
『自分にしか出来ないことをやりなさい』
日本代表監督になる前に、ユース日本代表の監督だったんです。
2年に1回の大会なので、
1年で単位を取得して卒業できる早稲田の大学院にいたんです。
その時に、スポーツ科学学術院の平田教授に教わった言葉です。
1年で、ライフセービングの教育、救命、競技、
風呂敷広げすぎて、たくさんのことをやろうとしたんです。
自分として何が発信できるのか、
本当に自分がやる必要があるのか見えなくなったんですよね。
迷いがたくさんあって自分のキャリアを見直している時に、
平田教授から「飯沼にしか出来ないことをやればいいだよ」と言われて。
それで、あぁ、自分にしか出来ないこと、それを突き詰めて行けばいいのかと。
この言葉は、今も大事にしていますね。