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本田武史さんが母親から言われた、今も大事にしている言葉とは?

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今回のゲストは、
長野、ソルトレークと2度のオリンピック出場を果たされた
日本男子フィギュアスケート界のレジェンド的存在、
本田武史さんです。


本田武史さんのプロフィール】

本田さんは、1981年、福島県郡山市生まれ。
スピードスケートを習っていたお兄さんの影響で、
7歳の時にショートトラックを始め、
9歳の時、フィギュアスケートに転向。

史上最年少の14歳で、全日本選手権初優勝を飾るとともに、
1998年長野オリンピックへも史上最年少の16歳で出場。
さらにこの年、日本人として初めて、
競技会で4回転ジャンプを3回成功という偉業を成し遂げた。

1999年の四大陸選手権大会では初代王者、
2002年のソルトレーク・オリンピックでは、4位入賞。

現在は、プロフィギュアスケーターとして
アイスショーで華麗な演技を披露するとともに、
フィギュアスケートコーチとして後進の育成にも力を注いでいる。



–なぜフィギュアスケートに転向されたんですか

フィギュアのコーチから
「ジャンプ力がありそうだからフィギュアやってみない?」と言われて。
それがきっかけですね。
  
  
–ジャンプ力があったということは足も速かった?
速かったです。
木登りとかも得意で、やんちゃでしたね。

  
 
–仙台までフィギュアをやりに行っていた?
週に1度新幹線で通っていました。
先生の家に一泊して次の日始発で帰って小学校に行くと。
仙台のリンクに沢山スケーターがいて、
その中に荒川静香さんがいたんです。
スケーティングの時からスピードが速かったです。
  
 
–フィギュアがうまい人はスピードも速い?

速いです、僕はビリでした。
8の字を描いてスケーティングすると、
僕が遅いから戻ってくる人と邪魔になるんですよ。
それでめちゃくちゃ怒られていました。
次からは一人抜こう、一人抜こうが目標でした。
  
 
–14歳でチャンピオンになるんですよね、後3年しかないですが?

中学に上がるときに仙台に移住したんです。
新幹線の料金が大人料金になるので(笑)
僕が仙台に行きたいと話たら
両親はいいと言ってくれたんですが、
おじいちゃんがダメだと。
家族は一緒に住むべきだと。
だから3年はやらせてくださいと約束して行きました。
結果が出なかったら帰ってくると。
 
 
–どのように結果を出したんでしょうか?
中学1年の時に全日本ジュニアで8位だったんです。
これじゃだめだと。
中学1年から2年の間に、トリプルアクセルを飛んでやろうと。
当時日本で数人しかいなかったんですが、
13歳の時に成功したんです。
中学3年生の時に全日本ジュニアで優勝して、
そのまま世界ジュニアに出場して2位。
その後、シニアのNHK杯で4位。
そのまま全日本に出て優勝と。
怖いものがなかったんですよね。
出たがりで目立ちたがり屋だったので、
その性格が良かったんでしょうね。
 
  
 
−リクエスト曲は?  

コブクロの『YELL~エール~』
 
歌詞がすきで、オリンピックの前に聞いていました。
胸にグッとくる曲ですね。


そんな本田武史さんに、金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!
『金子の深堀り!』
 
  
−4回転ジャンプを成功させましたが、なぜやろうと?
日本人で誰も成功したことが無かったので
飛びたいなと思ったんです。
実は、一度長野オリンピックで
スケートはもういいかなと思ったんです。
でも、カナダに引っ越したら、
男子選手が多くて、もう一度やろうと、
気持ちが前向きになったんです。
で、練習で飛んでいた4回転を
本番で入れてやろうと思って。
NHK杯で飛びました。
 
 
−練習で何割くらい成功すると本番に入れようと思うんですか
8割くらいあると自信はもてますね。
一瞬の気持ちのブレで失敗するので…。
   
 
   
−いけると思ったのに失敗するときも
あります。
その時が最も心のダメージが大きいです。
一つの転倒でやばいとなると、
失敗の連鎖が起きますね。
曲はどんどん流れて行くので。

 
  
−舞台、大会の大きい小さいはありますか?
あります。オリンピックは怖いです。
長野の時は眠れませんでした。
失敗したらどうしようとか、
余計なことばかり考えていました。
自分の滑りには程遠かったです。
ソルトレークオリンピックの時は、
その経験があったので、夜走りに行ったりして寝ていましたね。

 
 
−4位という成績は悪くないですよね?
ショートが終わって2位でメダルがちらついたんです。
3位と4位って全然世界が違うんです、何もないんです。
その後の世界選手権ではメダルを何が何でも取ってやると思って、
銅メダルを取りました。
じゃあ次はもう一つ上と思ったんですが、
次の年も3位で、その後大けがをしました。
そこからは怪我との戦いになりましたね。
 


そんな本田武史さんが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?
『やらずに後悔するならやって後悔しろ』
 
中学の時ですね。
仙台に引っ越しするときに母親から言われました。
長野オリンピックの後に、
辞めようとした時も言わました。
やって後悔した方がやっぱりスッキリしますし、
あの時やっておけばよかったと思ってももう戻れないので。
僕は仙台に行ったことも、怪我も、
すべてやってきた結果だから後悔はしていないんですよ。
この言葉がずっと胸にありますね。
去年母親が亡くなったんですが、
母親の部屋を片付けていたら、メモ書きがたくさん出てきて。
それは、母が僕を応援していたメモ書きでした。
それを見たときにやっぱりやってきて良かったなって思いました。
母は、一度も愚痴ったことは無かったですね。

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