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早川史哉選手がユース時代に聞いて、生き方の基礎としている言葉とは?

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今回のゲストは、
去年10月、急性白血病から、
およそ3年7か月ぶりにカムバックを果たした
サッカーJ2、アルビレックス新潟の早川史哉選手です。


早川史哉選手のプロフィール】

早川史哉選手は、1994年1月12日生まれ、新潟市の出身。
アルビレックス新潟の下部組織の出身で
高校3年の時には、 U-17ワールドカップで、
南野拓実選手や中島翔哉選手らとプレー。
日本代表をベスト8まで導く活躍を見せた。
2012年、筑波大学へ進学し、キャプテンとしてチームを牽引。
卒業後の2016年、アルビレックス新潟に入団、
ルーキーながら開幕スタメンの座を掴みフル出場。
順風満帆なサッカー人生を送っていたが、
開幕から2か月後、急性白血病と診断。
その後、骨髄移植手術を行い、寛解に向けた治療に専念。
そして去年10月5日、鹿児島ユナイテッド戦で先発出場し、
1287日ぶりの公式戦カムバックを果たした。

 

 



去年10月、3年7か月ぶりの公式戦復帰、ホームのビッグスワン、
 スタジアムに足を踏み入れたときどんな感じでしたか?
バスから降りたときに、
両脇にサポーターの方が待っていらっしゃって、
「史哉頑張れよ!」って声援を受けたときに。
その時点で涙が出そうでした。
 
  
–ロッカールームも特別ですよね?
28番のユニホームがかかっていて、
それを着て実際に出れるんだな。
やっと出れるんだって思いでしたね。

  
 
–練習でピッチに出る、ものすごい声援が降り注ぎますよね、
 涙腺がやばくなかったですか?

なるべく表情がばれないように、笑って出ていきました。
幸せの感情が溢れ出ての涙でした。
  
 
–この試合、鹿児島戦、最も印象に残っているのは何ですか?

相手の外国人FWと競り合って、
地面に落ちたんですけど、そのシーンが記憶に残っていますね。
それでようやく試合に入れたなと。
ずっと緊張していたんですけど、
地面に叩きつけられたところで、冷静に試合に戻れました。
痛みすら感じられる幸せというか、
戦える幸せをものすごく感じましたね。
  
 
–急性白血病と分かった時に安堵したということなんですが、
 その理由はなんですか?

病気だとわからない時に、
満足するプレーができなくて、練習も本当にきつくて、
サッカーすら嫌になってしまっていたんですが、
原因が、病気のせいだと分かった時に、ああ良かったと。
 
   
 
–同じ病気で戦っていた中学生の女の子、
 加奈ちゃんが亡くなって、明日は我が身という感情はありました?

自分が病気になったとき以上に、死について考えました。
絶対は無いんだなと感じて。
今こうして元気でいられることは
当たり前のことでは無いんだなと。
1日1日大切に過ごさないといけないなと、
強く考えさせられました。
 
 
–病気をしているのは自分だけという孤独感は?
精神的な孤独感、人と上手くしゃべれない。
同じ空間に、
面と面でコミュニケーションを取る機会が減っていく寂しさ、孤独感。
自分が何をしたんだ…。
理不尽という言葉がピッタリなのかなと思いました。
 
 
–負のスパイラルでどんどん悪い方に考えてしまいそうですが、
 踏みとどまれたのはなぜですか?

自分自身のサッカー選手として戻りたいという想い、
病気としっかり闘って外に出るんだという想い。
そういう強い思いが後ろ向きにならずに、
前向きに捉えられる大きな力となったのかなと思います。
 
  

−リクエスト曲は?  

槇原敬之さんの「僕が一番欲しかったもの」です。
中学生の頃にチームのモチベーションビデオで流れていて、
歌詞に、
自分が欲しかったものを見つけたけど、
周りにいた人がそれ欲しがっていたから、
その人にあげたと。
その人の嬉しそうな表情こそ僕が欲しかったものだった…
というような歌詞があって。
何かを分け合える、人間の素晴らしさを教えてくれた曲です。



そんな早川史哉選手に、金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!
『金子の深堀り!』

−94年生まれのU-17、南野拓実選手、中島翔哉選手らと戦って、
WC、世界が見えたんじゃないですか?
現実をまざまざと見せつけられました。
差がありました。
ブラジル戦、2-3というスコアにごまかされてはいけないと思います。
戦っていたみんなもそう思っていたと思います。
僕は点を取った以外、いいプレーが出来ませんでした。
自己評価は50点くらい。
 
 
−プロへ進まず大学を選んだのはなぜ
中学、高校のころから、
教員、指導者になりたいという想いが強くて。
サッカー選手という夢もありましたけど、
両方叶えるには大学進学だなと思ったので。
遠回りでも大学に進学しました。
 
 
   
−そのことについて後悔したことはありました
ありました。
U-17で一緒に戦ったメンバーが
代表の試合に絡んでいたりするのを見ると、
当時は悔しかったですし、
もしかしたら俺も…と少なからず思ったりしました。

 
  
−26歳になったばかりなのに、めちゃくちゃ自分を客観視していますよね
そうでもしないと生き残れなかったんです。
南野拓実選手だったり、中島翔哉選手だったり、
圧倒的な個の特徴がある選手の中で、
自分がどうやって生きていくのか、
ずっと考えていたんですよね。
自分の特徴が薄くなってしまうような感じがして。
中学までは体も大きくてそれが強みではあったんですが、
年齢を重ねるごとに周りも大きくなって、
自分の強みが消えて行って、このままだと残れないなと。
やっと自分をしっかり見つめて、自分の良さを考えるようになりました。
 
 
−どうすれば生き残れると思ったんですか
ポジション取りや予測ですね。
みんなのいいところをうまく意識して、

引き出しながら、自分の良さとしてプラスできるような、
そんな選手かなと思いました。

 
 
−病気を経験したことでサッカー選手としての早川選手はどう変わりました
見られている対象、自分がなんのために頑張るか、
その対象が広がりました。
想いの強さもものすごく変わったなと。
もちろん、サッカー選手としては、
病気にならないほうがよかったですが、
サッカー選手としてプレーするという根底の部分が変わったなと。
毎日サッカーができる、試合ができる喜びが表現できれば、
色んな人に、明るい思い、ポジティブなものは伝わると思いますし、
また逆に自分に跳ね返ってきて頑張る力になると思っているので、
サッカーができる喜びや幸せな表情を
しっかりとピッチの上で表現したいなと思っています。

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早川選手の著書
「そして歩き出す サッカーと白血病と僕の日常」好評発売中
徳間書店より、1,650円(税込)
急性白血病を患い、3年7カ月を経て
プロのピッチに戻ってきた早川史哉選手の、
ありのままの日常を綴った珠玉の一冊です。 

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そんな早川史哉選手が今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?
『実るほど頭を垂れる稲穂かな』
 
ユースの時の監督、片渕浩一郎さんが、
卒業パーティーの時におっしゃっていた言葉です。
どんなに成長しても、
実った稲穂のように頭を低く謙虚でいるんだぞと。
という話を聞いて、
自分自身もそういう姿勢でいたいなと思いました。

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