3月31日
■1973年(昭和48年)■「怪物・江川、甲子園に現る」
競馬界に怪物・ハイセイコーが現れた年に、高校野球にも「怪物」が出現した。
江川卓。栃木・作新学院のエースである。

高校1年でノーヒットノーラン2回(うち完全試合1回)、高校2年でノーヒットノーラン6回(うち完全試合1回)、高校3年でノーヒットノーラン4回という凄まじい記録を持つ。当時の栃木県は決して野球のレベルが高いとは言えなかった。関西や四国などの高校から見れば、「怪物というがどれほどのものか」という半信半疑の見方もあったろう。それが全国的に「怪物」として認知されたのが1973年春の選抜高校野球だった。その大会で奪った三振60個は空前絶後だ。しかも、わずか4試合の数字である。ほとんどが空振りの三振だ。うなりを上げてホップしてくるような速球を、高校生はバットに当てることすらできなかった。

その選抜で江川は佃投手・達川捕手(元広島)を擁する広島商に敗れた。当時、広島商の迫田監督は「打てっこない。デッドボールでもなんでも出ろ。ベースに覆いかぶされ」と指示したという。「当たったらどうなりますか」と聞く選手に、「死ぬだろうな」と答えたという冗談みたいな話だ。
広島商の一塁手だった町田選手はのちに全日本高校選抜に選ばれ、江川とチームメイトになった。彼が言うには江川のファーストへの牽制球が速すぎて捕れなかったという。それくらい凄い球を投げていた。江川が高校2年の秋に対戦した横浜高校の渡辺監督も「高2の秋の江川が一番速かった」と証言している。

江川はその年、秋のドラフトで阪急ブレーブスに指名されるが拒否。慶応大学進学を目指すが不合格となり、最終的には法政大学に入学した。六大学でもその実力は図抜けていた。当時、のちに夫人となる女性と交際していた江川はデートの時間を気にして、試合時間を早めるために、三振ではなくゴロを打たせて取ったというエピソードもある。あのとき、巨人が一番クジを引いていたら。そのままプロ野球に入っていたら・・・。古くは東映の尾崎行雄、最近では99年の西武・松坂大輔、昨年の楽天・田中将大らも及ばない、とてつもない高卒ルーキーの記録を残したかもしれない。

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1973年の主な出来事

*オイルショック(狂乱物価)
*金大中事件
*日本赤軍による日航機ハイジャック
*巨人V9達成



 
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