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小椋久美子が気持ちを切り替えるために支えられていた言葉

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今回のゲストは、
元バドミントン日本代表
潮田玲子選手との”オグシオペア”で話題になった 小椋久美子 さんです!



今回は、小椋さんの『相棒』「こだわりの用具」に迫りたいと思います!
バドミントン選手にとって小椋さんの相棒は・・・?
『ラケット』

これがなかったら競技ができないですし、自分にあったラケットっていうのを見つけて。1試合で6本ぐらいラケットを持って行きますし、本当に大切なものですね。
−特注ではなく既製品なんですよね?
そうですそうです。元々あるデザイン。
今の日本選手の何人かはモデルがあったと思います。
でも日本代表の全選手にモデルがあるかって言ったらないですね。

−こだわりはありますか?
私は軽すぎると肩を壊すんです。抜ける感じがあって。
あと私はあまりコントロールがいい方ではないので、すこし柔らかい、しなりが欲しくて。
棒でラケットを打ってる感覚なんですよ。しなりがあることで柔らかい球が打てたりとか、緩急の競技なので、強烈な球だったり柔らかい球を打たないといけないんですけど。
ラケット面で切ったりするんですよ。シャトルを切って回転をかける技術も柔らかい方がしっくりきてましたね。
−ガットのテンションとかも違う?
私はパワーヒッターのタイプだったので、「ガットをきつく張りなさい」って言われるんです。
でも、そうなると弾きがよくなるので、シャトルをガットが吸収してくれないんですよ。
だからパワーは自分の体を鍛えて速いスマッシュを打とうと思っていたので、
ガットはあまり張らずにシャトルを吸収してくれるような硬さで張っていましたね。
あとはグリップの太さもありますね。
私は171センチあるんですけど、手が小さくて握力が25kgぐらいしかないんです。
グリップをぎゅっと握れるのが太いグリップなんです。
細い方がコントロール部分ではいいんですけど、強い球打つにはグリップが太い方がいいんですよね。


んな小椋久美子さんに金子がより深掘りして聴いていくコーナー
『金子の深堀り!』

−高校時代から目標だったオリンピックはどうでした?
北京の前にアテネオリンピックもオリンピックレースに挑戦したけど、アテネには出られなかったっていう挫折があって。
元々、気持ちが本気じゃないわけではないんですけど「オリンピックを甘くみていたな」ってところがあったんです。
漠然としている部分が多少あって、オリンピックレースって1年間戦うんですけどすごく過酷なんですよ。
海外をずっと飛び回っている上に、出場できるのかという不安もあって。
またランキングをあげるためにポイントんの計算とかあるんですけど、「この大会で勝たないとこの選手に抜かれる」とか、そういうプレッシャーに押しつぶされそうになる1年間があるんです。
その1年間を戦った時に、後半ずっと海外を回ってトッププレイヤーと対戦してるわけじゃないですか?
先輩とかを見てると、怪我をした中で試合をしている姿を見ていて
そこの気持ちの強さだけで戦っている姿を見た時にオリンピックって頑張ったら出られる場所って簡単に思っている気持ちの甘さがダメだって思ったんです。
怜ちゃん(潮田玲子)と二人で「北京までの4年間死ぬ気で頑張ろう」って、二人で悔しい思いをして挫折を味わったその時に、言葉として二人で言いましたね。
−そこから何が変わりましたか?
逆算じゃないなって思ってたんですよね。
4年前だったらこういうことをやっておかなきゃいけないとか、そういう風に考えてやっていなかったなって思いましたね。
そこってすごく大切だなって思って。
漠然と目標を抱いていて、とりあえず一生懸命頑張っていれば辿り着けるって思ってたら無理でしたね。
決まった時は
開放感よりも、オリンピックに出たいっていう目標からオリンピックでメダルを獲りたいっていう目標に変わっていたので、やっとスタートラインに立てるっていう安堵感がありましたね。
−そこから何が変わりましたか?
幸せだなとかそういう実感はなかったですね。
緊張に飲み込まれて、オリンピックの独特な”魔物が住んでいる”っていうあの空気。
中国とかだったら一生がかかっていたりするんですよ。
この大会ってどの選手にとっても人生をかけた大会なんだなっていう。
それが作り出している空気感だと思うんですけど、それに飲み込まれてしまいました。

−その後ペアを解消した理由は?

私がもう一回オリンピックを目指そうって思った時に4年間頑張ってもらえないと
どれほど難しいかっていうのを痛感していたので。
オリンピックが終わったあとに「1年1年で見たい」って言われたので。
それで半年ぐらい話し合ったのかな。4年間頑張るか、1年というスパンで見ていくかっていうところで、そこの意思の違いというか目標の違いっていうところでペアを解消しましたね。
−辛い決断だった?
そうですね…どうだろう。怜ちゃんだったからこそ、自分がここまで強くなれたっていうものが大きかったので。そっちの方が強くて。
また、前向きなペア解消だったので。
自分自身だけで戦うっていうことよりも、後輩を育ててチームを強くしないといけないとか、自分自身も前向きに4年間頑張ろうみたいな。
怜ちゃん自体も「辞めるか辞めないか」っていう悩んでいる時期だったと思うので、もう一回頑張ろうって思っていたと思うんですよね。
お互い違う道で頑張ってみようって思ってたので、だから寂しいっていうよりも…
でも最後の全国大会では、決勝までのウォーミングアップでは泣きながらウォーミングアップしてましたね。
これで最後なんだなって思いで気持ちを作らなきゃいけないウォーミングアップで気持ちが乱れるっていう(笑)
それは多分寂しいって思った瞬間なんですかね。
−日本代表が強くなった理由は?
話すとたくさんあるんですけどね(笑)
簡単にいうとパク監督っていうのがちょうどアテネ五輪が終わったあとなんです。
私たちが1期生で指導していただく中でパクさんの言葉ってすごく大きくて。
世界って1回勝つだけでも難しいぐらいレベルが低かったんです。
世界の大会に出るだけでいいって考えもあったんですよね。
でもパクさんが言ってたのが「あなたたちは世界で勝てるだけの実力がある」
バドミントンの神様って言われるぐらい、オリンピックで金メダルを獲っているすごい選手からの言葉だったので自分たちってできるんだって思えたんです。
あと、パクさんが環境整備をしてくれて、代表合宿がすごく増えたんです。
それまでは企業で練習して、空港で代表が集まるっていう感じだったんです。
でもそれで代表の自覚なんかないじゃないですか。
あと、代表の合宿の練習がむちゃくちゃキツかったんです。
パクさんは技術的なものは他の国に劣っているって思ってなくて、足りないものは自信だったりフィジカルだったり、そういうところを鍛えるところを一番に置いたのかなぁって。
遠征も小さい大会に出てポイントを稼いでいたのを全部大きい大会に変えたんです。
そこで少しずつ自信をつけていって、「こういうことをすればもっと勝負できるな」っていうことも見つけていけたりして、取り組み方がすごく変わりましたね。
あとは日本の選手が世界で活躍したあとに、日本の企業で戦って競れたりしたら、世界を知らない日本の選手に「自分も世界で戦えるかも」って思えるようになったり。
だから、今活躍している日本代表は先輩たちが築きあげたものに乗っかってくれているように思いますね。
今では、日本が世界を引っ張っていく存在になったと思います。


そんな小椋久美子さんが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?
『明日は明日の風が吹く』
よく聞く言葉ですよね(笑)
私たちって毎週のように試合があるんです。
負けてしまっても次の試合には気持ちを切り替えてまた試合に臨まないといけなくて。
自分が落ち込んで気持ちを切り替えられなくて次の週勝てないっていう状況にならないように。
今回は勝てなくても次戦ったときには勝てるようにっていう前向きな気持ちにさせてくれた言葉でもあって。
スランプになった時もいつか出口は必ずあると思うって支えてくれる言葉でもあったし、
逆に、明日なにが起こるか分からないっていう、どっちもですね。
常日頃、ちゃんと感謝の気持ちを持って…っていう。


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