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怪我に苦しみ鳴かず飛ばずだった斉藤和巳を変えた小久保裕紀の言葉

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今回のゲストは、
元福岡ソフトバンクホークスの絶対的エースで、
2度の沢村賞を受賞された 
斉藤和巳さんです!



【斉藤和巳さんのプロフィール】

斉藤和巳さんは1977年、京都府生まれ。
小学1年から軟式野球を始め、南京都高校のエースとして活躍。
甲子園出場はありませんでしたが、
190センチを超える長身に投手としての潜在能力の高さを買われ、
1995年のドラフト1位で、福岡ダイエーホークスに入団。

プロ8年目の2003年には、
20勝をマークし、最多勝、最優秀防御率、最優秀投手、
沢村賞とタイトルを総なめにし、チームを日本一に導きました。

2006年は、18勝をあげ、パ・リーグ史上初めて2度目の沢村賞を受賞。
その後は右肩の故障に苦しみ、2010年を最後に自由契約。
リハビリ担当コーチを務めながら再起を図っていましたが、
2013年に現役を引退。

プロ通算150試合で79勝23敗、
勝率7割7分5厘の驚異的な記録を残されました。
現在は解説者を務めながら、各地で開催される野球教室で指導されています。


-最初はキャッチャーをやっていたとか!
中学くらいまでは、ほとんどキャッチャーをやっていました。
中学校3年生くらいから、やっとピッチャーをやるようになったので、
実質3、4年くらいしかピッチャーをやらずにプロに行きました。

−なぜ無名の高校だった南京都高校に進学した?
強い学校に行きたいと思わなくて、自信もありませんでしたので・・・。
甲子園も行ければいいなというくらい。
甲子園はあくまで高校野球の延長として捉えていて、
僕は高校野球を純粋に楽しみたくて、高校を選びました。

−プロという道が、自身の中に芽生えたのはいつ頃?
高校3年生になって、スカウトの方が来られるようになってから意識し始めました。12球団のスカウトの方が来ていましたが、当時のダイエーのスカウトの方が、一番熱心に来られていました。

−子供の頃から巨人ファンというのは、進路に影響しなかった?
そこは高校を選ぶのと同じで、強いところに興味がありませんでしたね。
セ・リーグも興味がなく、行くならパ・リーグ。
セ・リーグよりパ・リーグの野球の方が好きでした。

当時ちょうどイチローさんが活躍していた地元オリックスも、

どこか自分のイメージに当てはまらず・・・。
そんな中で当時晩年Bクラスのダイエーが
一番良いイメージでした。

−他の球団に指名されたらどうしていた?
行ってないですね。
他の球団から指名を受けた場合は、社会人に進むか1年間浪人するかという選択をするつもりでした。

−2003年のあの大ブレイクは、開幕前予感はあった?
ある程度出来るという自信はありましたが、あそこまでの活躍は予想していませんでした。自分でもびっくりしていました。周りの色々なものがどんどん変わって行き、投げても投げても勝ち続けて、自分でもどうなっているのだろうと思っていました。

−ボールが止まって見える!に似た感覚があったのでは?
勝ち続けるうちに、途中から相手が僕を意識し始めていると分かってから、
気持ちが楽になりました。
それまでは必死に投げているだけでしたが、相手が意識しているのを感じてからは、自分は普通で良いんだなと思えるようになりました。

−相手が意識し始めると、投球術はどう変わる?
そこまで相手が意識し始めると、
真ん中に投げても打ち損じてくれることもあるし、
バッターは打っても3割という楽な気持ちで投げられるようになりました。

−その感覚は怪我に襲われるまで消えなかった?
怪我したことは、今振り返っても後悔はないです。
あの時こうしておけば良かったという後悔はないですし、
怪我をしている時間やタイミングは、何かしら教えてもらえますし、
得るものが多かったです。


そんな斉藤さんに、金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!
『金子の深堀り!』
-斉藤さんの人生には、小久保裕紀さんが大きく影響しているとか?
僕の人生の中で、大きな影響を与えてくれました。
1回目の手術の時期がほとんど変わらず、
それまで1軍選手と2軍選手であまり接点がありませんでしたが、
同じ病院で手術をして、病室も隣になり、初めて接点を持ちました。
そこから退院後もリハビリを一緒に行い、自主トレにも連れて行ってもらうようになり、人としてプロ野球選手として、小久保さんに惚れて行きました。

-小久保さんの何がそこまで魅力的だった?
そこまで口うるさかったり、口数が多いわけではなく、行動で見せる方でした。
一番印象的なのは病院でのリハビリ。
病院のリハビリ施設が開くのは9時からで、一般の方も来るのですが、
僕が毎日9時に行っても一度も小久保さんに会いませんでした。

気になって担当医の方に聞いてみたら、
小久保さんは病院が開く1時間前の8時頃には来ていて、
他の方が来る前には終わっていたんです。

それを聞いて、ダラダラしている自分が恥ずかしくなりました。
それがきっかけで、小久保さんを追うようになりました。

-斉藤さんの片思いのような関係!その後の関係性は?
自主トレを一緒に行うようなりましたが、あまり関係性は変わりませんでした。
初めの2、3年は1軍選手と2軍選手なので、自主トレで会うという感覚。
当時は投手と野手が一緒に自主トレをやることも、
あまり普通ではありませんでした。
自分が自主トレに参加するようになってから、
ブルペン捕手の方を呼んでくださったりなど、色々と気を使ってくださっていたのにも気付いていませんでしたね。
後々自分でも準備するようになってから気付きましたね。

-小久保さんが巨人に行ったのはショックだった?
色々ありましたからね、ショックを通り越しましたね。
当時のオーナーと僕も話しましたからね。

−一緒に行きたいという気持ちはありましたか?
そこは全く別でしたね。
ホークスに恩もありましたし、鳴かず飛ばずの自分を見てくれていたからこそ、
ブレイクのシーズンがあったので。
もちろんホークスファンの方も、熱い応援してくれていましたし、
優しくあったかいファンに背を向けられないなという思いもありました。


そんな斉藤さんが今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?
『もう2度とない、この1球。』

当時監督を務めていた王貞治監督の言葉で、
同じボールでも前のボールとは違う。
ということはその一球は今後ない。
今その一球、その一瞬を大事にしなさい。という言葉。

もう1つ大きなチカラになった言葉とは?
『群れるな。』

小久保さんから言われた言葉で、
言葉をもらったタイミングがすごい自分に合っていて、とても響いた言葉です。
当時まだ若くて、結果も残せていなかった時期でした。
しんどいことは、人とやっている方が紛れるものだと思うのですが、
アスリートにとってその紛れは、何もプラスにならない。
同じやるなら、自分の身になるようにならなければならない。
群れるなと言われてからは、一人で練習するようになりました。
ピッチャーの輪から、少し離れて練習するようになり、習慣をつけました。
もちろん怖さもありました。
チームメートからも「お前変わったな。」などと言われましたが、
僕は「変わったよ。もっと上行きたいから変わったよ。」と思っていましたね。
それで結果が出ない怖さもありましたが、
そこで生まれる結果への飢えがとても大事でした。

次週9月10日も、
斉藤和巳さんをゲストにお迎えしてお届けします!
お楽しみに!


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