私が1970年3月に卒業した横浜市立神大寺小学校が創立50周年を迎えました。
小学4年の秋に兵庫県高砂市から転校した頃は、まだ近所の小学校の分校という状態から神大寺小学校として独立して数年という若い学校で、周囲は見渡す限りキャベツ畑や雑木林という環境でした。
久しぶりに訪れた母校の周りは地下鉄が開通しキャベツはたくさんのマンション群に変貌していました。
関西弁を驚かれたこと。親友との出会い。親友のお母様が病気で亡くなられたこと。どうしてもクラスの皆と修学旅行に行きたくで、引っ越した世田谷から1時間かけて越境通学した6年生のころ。
通ったのは2年半という短い期間でしたが、忘れられない思い出もたくさんあります。
卒業生というご縁で、先日50周年のお祝いの会に呼んでいただいたのですが、体育館に足を踏み入れた私を在校生が校歌を歌って迎えてくれました。私は彼らと神大寺小で繋がっているのだなぁと思うと胸がジーンとしました。
しかしその時、少々困ったことに気がつきました。皆が大きな声で歌ってくれている校歌に、まったく聞き覚えがないのです。そんなわけはあるまいと渡された歌詞カードに目を落としメロディーを追おうとしても、本当にまったく歌えない。
情けないやら申し訳ないやらという気持を悟られまいと、懐かしさに感無量という表情で子供達を見つめておりました。
児童や父母の皆さんの前で神大寺時代の思い出話と、3月11日の東日本大震災当日のラジオや防災の話をさせていただきました。
質問の時間には「津波の跡はどうなっていましたか」「東北の人たちは今一番大変なことはなんですか」そして帰り際玄関で会った小学5年生の男の子には「僕たちは東北の人たちのために何ができるでしょう?」と聞かれました。
あの日の事は、子供たちにとって私が考えている以上に大きな影響を与え様々なことをちゃんと考えていることを知りました。
実家が農家だったクラスメイトの三枝君は農家を継いでいて、地元の消防団員でもありました。今回の地震で水門を閉めたり避難の誘導中に命を落とした東北の消防団員の皆さんに心を痛めているという話も聞きました。
子供達や校長先生以下学校関係者の皆さんや父母のみなさんには大変にお世話になりました。大変に楽しいひと時でありました。
さて、お祝いの会が終わって言われました。
「神大寺の校歌は、上柳さんがいた頃はまだなかったんですよねぇ」
「えっ!」
分校から始まった神大寺小学校には、開校後10年間ほど校歌がなく、その代わりに「横浜市歌」を歌っていたそうです。そういえば通信簿の表紙に「横浜市歌」の歌詞が書かれていました・・・
いやはや、ほっと胸をなでおろした次第です。
ニッポン放送
上柳昌彦