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明けましておめでとうございます。
本年も『鈴木亮平 Going Up』をどうぞよろしくお願い致します。
2018年最初のゲストは、長野パラリンピック金メダリストのマセソン美季(ませそん・みき)さんです。
マセソンさんは、今からちょうど20年前、1998年の長野パラリンピック・アイススレッジスピードレースで 4 種目に出場し、500・1000・1500mで金メダル、そして 100mで銀メダルを獲得しました。1500mでは世界新記録も樹立しています。
アイススレッジスピードレースとは、スピードスケートの刃のような 2 本のブレードがついたそりで氷の上を滑りタイムを競う競技です。先端にアイスピックがついたストックで氷をかいて前に進ます。
(参加国と競技人口が少ないという理由から、長野大会を最後に冬季パラリンピックの正式競技からはずれました)
マセソンさんがアイススレッジスピードレースを始めるきっかけとなったのは、長野パラリンピックに向けて行われた選手発掘イベントでした。
当時、陸上の車いすマラソン競技をやっていたマセソンさんは、はじめは全くアイススレッジ競技に興味が湧かず、スケートリンクは寒いし、どうやってここを抜け出して帰ろうかなと思っていたそうです。
小さい頃からスポーツが得意で、体育の時間や運動会では必ず目立っていたと言いますが、アイススレッジスピードレースは初めて、出来ないと思ったスポーツでした。
適当な言い訳でもつけて辞めようかと一時は思いましたが、このまま辞めたら”逃げている負け犬”のような気がして、辞めるにしてももう少しできるようになってから辞めよう、と考えを変えました。
そうやって始めたアイススレッジスピードレースでしたが、やってるうちに「速くなりたい」「強くなりたい」「大きい大会で活躍したい」と、どんどん欲がわいてきて、自分の国で開催される長野パラリンピックで、自分の国の代表ユニフォームを着て出場することが、いつしか目標になっていきました。
そうして迎えた、長野パラリンピック。
競技場に入った時、目に飛び込んできたのは大勢の観客でした。
こんなに多くの人たちの前でプレーするのは初めてのことで、それまで一度も試合で緊張したことはありませんでしたが、この時初めて緊張したと自身初のパラリンピックを振り返ります。
実は、出場した4種目中、100m以外はメダル圏外の選手だと思われていたといい、取材陣から「そこの黄色いジャンパーの子、邪魔だからどいてくれる?」と言われ、どかされたこともあったそうです。
ところが、そんな”黄色いジャンパーの子”が金メダルを3つも獲得するという快挙を成し遂げます。
そこには、こんなエピソードがありました。
最初の出場種目だった100mを銀メダルという結果で終えたマセソンさん。
「あー、終わっちゃった」と完全にリラックスモードで、次の試合に向けて他の選手たちがウォーミングアップをする中、マセソンさんは昼寝をしたそうです。
昼寝中、さっき負けたはずのレースで、一番いいレースをして金メダリストになっている夢を見たといいます。
レースの時間が近づき、トレーナーさんに起こされたマセソンさんは、すっかり金メダリストのイメージ。何も怖いものはありません。
競技場に入ると、さっきまでの大歓声とは違い「美季がんばれ!」「松江(マセソンさんの旧姓)こっち!」と、自分への歓声が全部耳に入ってきて、(やっぱり金メダリストになったら、みんな見てくれるのね!)と思ったそうです。
いつもはスタート前に、あれをやってはいけない、これをしないようにしよう、という”やってはいけない事リスト”を頭の中に置いてレースに臨みますが、この時ばかりは、今までで最高のレースが頭の中にあったので、何も気にせず「もう大丈夫!」と自分を信じることができたといいます。
いいレースに入れるという自信の中でスタートの音を聞き、思い通りのレースを展開。そして、金メダルに輝きました!
昼寝の時に見た夢は、完璧な『イメージトレーニング』だったようです。
快進撃は続き、終わってみれば、500m・1000m・1500mと3つの金メダルを獲得しました。
“夢”のようなエピソードですね。
障害がある方にとって、普通は『バリア』である雪や氷。
ただ、競技をすることで、雪山に行ったり氷に乗ったりして、日常生活では体験できないような感覚の中、スピードを感じる事ができるのは冬のスポーツの魅力だとマセソンさんは語ります。
そんな、冬のパラスポーツの祭典、平昌2018パラリンピックがもうすぐ始まります!
マセソン美季さんのリクエスト曲: Happy / ファレル・ウィリアムス
息子さん達の目覚ましの音楽。
カナダ在住のマセソンさんは、今、仕事で日本とカナダを往復して家を空けることもよくあるそうです。「マミーもこの曲を聞いて、毎日僕たちのことを思い出して元気な1日を迎えてね」と息子さんたちにもらったのがこの曲。毎朝聴いているそうです。
次回も引き続き、マセソン美季さんをゲストにお迎えします。お楽しみに。
今年も一年、『 鈴木亮平 Going Up 』をお聴き頂き、誠にありがとうございました。
これからもパラアスリートの素顔に迫り、パラスポーツのかっこよさを伝えて参ります。
2018年もどうぞよろしくお願い致します。
皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。
今年2017年最後のゲストは、視覚障害者柔道の正木健人選手です。
得意技は「大外刈り」と「払腰」だという正木選手。
視覚障害者柔道に転向して自身初の国際大会となった2011年の世界選手権では、オール一本勝ちで優勝。
「自分の柔道人生の中でも一番内容が良くて満足した大会」で、翌年のロンドンパラリンピックに向けて、これなら行ける!と手応えを感じていました。
2012年。
ロンドンでパラリンピックの舞台に立った正木選手には何のプレッシャーもなく、試合前の緊張感もふだんの大会と変わらなかったといいます。
長年、健常の柔道をやってきたという自信、そして、前年の世界選手権で圧倒して優勝できたという自信。
パラリンピックという重みを感じず勝ち進み、初出場にして金メダルを獲得しました!
金メダリストになって、地元の学校などいろいろな所に報告に行ったり、イベントに参加したり、生まれて初めて講演会をやったり…そういう活動の中で、(自分がやったことってすごいことなのかな)と思い始め、そこで自分が出した結果のすごさや重みを感じるようになりました。
そこからリオ大会までの月日は「本当にきつかった4年間」だったと語ります。
ロンドン大会が終わって一年半の間、盲学校で資格取得に専念するため柔道から離れます。その後、盲学校を卒業して、また柔道を続けようとしましたが、一年半というブランクは想像以上に大きく、練習に体がついていかなかったといいます。
世界的に視覚障害者柔道のレベルも一気に上がり、大会に出てもタイトルをひとつも取れず、一時はもう辞めた方がいいのかなとも思ったそうです。
日本でもパラリンピックの知名度が上がり、それに伴ってまわりの期待は膨らみ、それがプレッシャーにもなっていきました。
さらに怪我も多く、その怪我とどうやって向き合えばよいかわからないという時期も長く続きました。
2016年に入り一度柔道から離れて、痛めていた膝のリハビリと体作りをゼロから始めることを決意。そのトレーニングにより徐々に体が戻り出して、なんとかリオ大会を迎えます。
練習不足による不安は強くあったものの、あとは「やるしかない」と自分を奮い立たせ、2度目のパラリンピックの舞台に立ちました。
準決勝の相手は過去に2回負けている相手。「勝負どころはここだ」と気持ちが入りすぎて、冷静さを失っていました。
試合が始まってすぐに(あれ、この選手こんなに力強かったかな)と思ったその一瞬をつかれ敗れてしまいます。そして、銅メダルという結果に終わりました。
試合後に見せた涙の意味は、後悔。
なぜもっとちゃんとやらなかったんだろう、なんでもっと周りの意見を聞いたり、自分で新しいことを始めようという考えに辿り着かなかったんだろうという、後悔の涙でした。
正木選手にとってリオ大会は「悔いしか残らなかった大会」となりました。
視覚障害者柔道は、一般の柔道とは違い、組んだ状態から試合が始まります。
技術勝負はもちろん、重量級になるほどパワーがものをいう世界。
柔道を知らない人でも見て楽しめるのが、魅力だといいます。
東京2020大会へのカウントダウンが始まっている今、そんな柔道の魅力を伝えながら、出場する大会では優勝を目指して、東京大会まで突き進んでいきたいと意気込みを語りました。
最後に、正木選手が上をめざして進もうとする方に伝えたい“Going Up”な一言を伺いました。
『執念』
視覚障害者柔道の選手の中には、交通事故や病気など後天的な理由により障害を負い、どん底を味わった人たちがいる。自分は何度も心が折れかかったけれど、そういう選手たちを見ると生きる力をもらい、執念を燃やして何事にも前向きな彼らの姿を見て、自分もやろうという思いになる。
天理大学柔道部の教えにもあるこの『執念』を持って東京大会で優勝したい。
そういう思いが込められた言葉です。
正木健人選手のリクエスト曲: Hero / 安室奈美恵
リオ大会の前から聞いていて、今でも一日に一回は聴く曲。
次回、2018年最初のゲストは、長野パラリンピック金メダリストのマセソン美季さんです。どうぞお楽しみに。