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8月15日(16日)の放送では、ブラインドサッカーの増田周平(ますだ・しゅうへい)選手にリモート出演いただきました。
広島県出身の25歳。次世代を担う若手アスリートです。
東京2020大会でパラリンピック初出場を果たすブラインドサッカー日本代表は、その次のパリ2024パラリンピックで世界一になることを目標に次世代アスリートの育成も強化しており、増田選手も将来が期待されている選手のひとりです。
増田選手がブラインドサッカーを始めたのは、大学生のとき。
茨城県にある筑波技術大学に通っていたときに、先輩に誘われて体験したのがきっかけとなりました。
それまではテニスや野球をやっていたそうですが、足でボールを操る競技はやっていなかったため最初は率直に難しいと思ったそうですが、ボールを取れた時に喜びを感じ、すごく楽しいと感じたといいます。
アイマスクをして音だけを頼りにプレーするブラインドサッカーでは、試合中に相手チームの選手が突っ込んでくることもあるので、最初の試合の時は怖くて嫌だったと振り返ります。
テニスをやっているうちにどんどん視野が狭くなっていき、スポーツができなくなっていった増田選手ですが、視覚障がい者でもできるブラインドサッカーというスポーツがあることを知って、「自分でもできるスポーツがあるんだ!」と思い、そこから本格的に競技に取り組むようになりました。
最初に所属したのは、「Avanzareつくば」という国内の強豪クラブチーム。
当時のAvanzareには、現在、日本代表キャプテンを務める川村怜(かわむら・りょう)選手や佐々木ロベルト泉(ささき・ろべるといずみ)選手をはじめ、そうそうたるメンバーが在籍。
攻撃に定評のある川村選手、ディフェンスが抜群の佐々木選手など、お手本になるような選手が身近にいて、自身にとって良い練習になった一方で、うまくディフェンスをすることができず怪我をしまうこともあったと話します。
ただ、練習以外ではすごくフレンドリーに話しかけてくれる先輩たちのおかげで、距離もどんどん近づいていったそうです。
ちなみに、増田選手は性格的に“いじられるタイプ”とのことです(笑)。
増田選手の得意なプレーは、ディフェンス。
相手チームの選手に一度触れたらずっとその選手を追いかける、ねちっこいディフェンスが持ち味です。
大学卒業後は、日本ブラインドサッカー協会で働いている増田選手。
東京に住むことになり、今年結成されたクラブチーム「ソイエ葛飾」へと移籍しました。
しかし、現在ソイエ葛飾には選手が2名しかおらず、試合ができない状況だということです。
「ブラサカを楽しく笑顔でやる!」がチームのモットーである、ソイエ葛飾。
メンバー絶賛募集中!ということですので、興味のある方はぜひ日本ブラインドサッカー協会にお問い合わせください!
次回も、増田周平選手にお話を伺います。
どうぞ、お楽しみに!
増田周平選手のリクエスト曲:Butter-Fly / 和田光司
小中学生時代によく聞いていたという一曲。今でもこの曲を聞くと昔のことを思い出すそうです。
8月8日(9日)の放送では前回に引き続き、陸上・走り高跳びの鈴木徹(すずき・とおる)選手と電話をつないでお話を伺いました。
山梨県山梨市の観光大使を務める鈴木選手。
ご実家は専業農家で果樹園を営んでおり、ぶどうやさくらんぼ、最近ではシャインマスカットも育てているそうです。
新型コロナウイルス感染拡大による影響を受け、さくらんぼ狩りのピークだった5月から6月にかけてはお客さんを乗せたバスが1台も来なかったといいます。これからのシーズンは桃狩りやぶどう狩りが始まるので、ぜひ山梨にお越しください!とPRして頂きました。
さて、義足アスリートのパイオニアとして、2000年のシドニー大会から5大会連続でパラリンピック出場を果たした鈴木選手。
昨年11月にドバイで開催された「世界パラ陸上競技選手権大会」では走り高跳びで銅メダルを獲得し、東京2020パラリンピック日本代表に内定しました。
自身6回目となるパラリンピックへの切符をかけたこの世界選手権に臨むにあたり、
「もちろんメダルは目指していましたが、どうにか4位以内に入って東京2020パラリンピックへの切符を取り、年内に内定をもらいたいという思いが強かった」と当時の心境を語ります。
(※各種目4位以内の選手に東京2020大会の内定資格が与えられると大会前に発表されていました)
競技用の義足を海外製から日本製に変え、まだそんなにしっくりきていなかったといいますが、その中でベストの状態で行こうと考え、メダル圏内と想定していた1m95をターゲットに試合に臨みました。
記録は目標にわずかに届かず1m92でしたが、見事、銅メダルを獲得!
東京2020大会への内定をもらうことができて「ほっとした」と話します。
東京2020パラリンピックは1年延期となりましたが、この内定資格は維持されることが発表されています。
来月9月5日(土)、6日(日)には「第31回 日本パラ陸上競技選手権大会」が埼玉県・熊谷で開催されます。(※無観客での開催となります)
久しぶりの実践の場となるこの大会に向け、鈴木選手は自信をのぞかせます。
「自粛期間が長くて跳躍のブランクはありましたが、昨年の世界選手権で見つかった(ジャンプする時の)『踏み切りのリズム』という課題に対して、自粛中に新しいきっかけと気づきがありました。息子たちとバスケットボールやハンドボールをするときにいろいろなステップを考えながらやったことで発見があったんです。そのステップの部分が定着して試合で出せれば、1m95以上は跳べるのではないかと思います」
パラリンピックを来年に控えるなか、今シーズンの意気込みを伺いました。
「今年は、来年にメダルを獲るという目標を掲げてのステップのシーズンだと思っています。義足を試したりステップの部分でリズムを変えたり、いろいろなことを試しながら来年に向けてスタートできるような、来年への橋渡しになるシーズンにしたいと思います」
鈴木選手が、いま大きく掲げるテーマは“挑戦”。
マスターズへの挑戦や40代で2mを跳ぶという挑戦…40代になり変化がある中でも、あえて置きにいくことをしないという「チャレンジ精神」に溢れていると話します。
40代になった今、この「挑戦」という言葉に「シンプルな感じがでてきた」と語ります。
Going Upし続ける鈴木選手の今後の活躍に期待しましょう!
次回のゲストは、ブラインドサッカーの増田周平選手です。
どうぞ、お楽しみに!
鈴木徹選手のリクエスト曲:夜に駆ける / YOASOBI
外出自粛の制限がだんだん解かれていき、息子さんたちが活発化してきたときによく聴いた曲だそうです。鈴木選手ご自身もちょっと気持ちが下がった時があったと言いますが、それを盛り上げてくれるような曲だということです。
8月1日(2日)の放送では、陸上・走り高跳びの鈴木徹(すずき・とおる)選手と電話をつないでお話を伺いました。
「鈴木亮平 Going Up」には、2018年1月以来、2年半ぶりのご出演です。
鈴木選手は、日本人初の義足のジャンパーとして2000年のパラリンピック・シドニー大会に出場。その後も、アテネ、北京、ロンドン、リオと5大会連続で出場を果たしました。
昨年11月にドバイで開催された「世界パラ陸上競技選手権大会」では銅メダルを獲得し、東京2020パラリンピックへの切符を掴み取りました。
自身6回目のパラリンピックとなる東京2020大会。
1年の延期について、率直な心境を語りました。
「今年の秋を目指してやっていたものが来年になって、これまで4年スパンでやってきたので、4年+1年というのは気持ち的にも体を作るという意味でも難しいのではないかという思いがありました。ただ、自粛中に考えたのは、やっぱりスポーツは世界的に平和で安定していないとできないということ。選手としてはたくさんの方に応援してもらいたいので、無観客でやるよりは観客がたくさん入ってやった方がいいということを強く思いました」
国内外の試合が中止になるなか、「アスリートだからと無理に維持して頑張ろうというよりは一回止めよう」と考え、2〜3週間はトレーニングを止めたといいます。
外出自粛期間中は競技場もグラウンドも使用することができなかったため、マットを置きバーをかけて行う本格的な走り高跳びの練習はできませんでしたが、この期間があったことで「義足を試す時間をたくさんもらえた」と前向きに捉えています。
山梨県の自宅で家族と過ごしながら、庭でジャンプを少しやってみたり、二人の息子さんがバスケットボールをやっているので一緒にバスケをやったり、家でごはんを作る回数も増えて「主婦みたいな生活」をしていたそうです。
現在は、走り高跳びのトレーニングも再開しているということです。
競技場では、受付で体温を書いたり住所や名前を書く等これまでと違うところはあるものの、それ以外は、競技用具も使うことができ通常に戻りつつあるそうです。
今年5月で40歳になった鈴木選手は「1年1年が勝負」だと話します。
40代というフェーズに入り、新たな目標もできました。
「マスターズという35歳から出場できる大会があって、今までは障がいのクラスで戦ってきましたが、今度は年齢で戦えるチャンスが広がります。足がなくてもあっても年齢別に競うので、そういうところで戦えるという楽しみが増えましたね」
これまでも、障がいの有無に関わらず出場できる地元・山梨県の県選手権大会に出場して、「高校生がバリバリやっている中、おじさん一人で出てトップを目指した」といいます。
技術系の種目である走り高跳びは、スピードだけではなくテクニックも大きく影響するため、20代後半から30代前半がピークだと言われています。
県選手権大会でも「最高は2位まで行ったことがあるので、そこでの1位も目指していきたい」と力強く語りました。
パラリンピック5大会連続で出場、20年以上にわたり陸上界の第一線で活躍してきた鈴木選手。
その選手生活を支えてきたものとは?
「『跳ぶ』ということに対しての強い執着心です。それは5歳のときに遡るのですが、心臓に病気が見つかって運動が制限されました。そしてもう一つ、言葉の病気もありました。妹と一緒に遊んでいたら(妹が)川に溺れてしまって、母親にそれを伝えるのに言葉が出なかったんです。それであまり学校生活がうまくいかないことがありました。でも、不思議とスポーツをやって僕がいいプレーをすると周りの悪い子たちも褒めてくれたんです。そういう経験が僕のスポーツのベースにあって、その中でもジャンプ力はすごく自信がある部分だったので、それがハンドボールや高跳びにつながりました。
(パラリンピックに出場して)最初のころは世界記録で金メダルを獲ったら終わり、と思っていましたが、なかなかメダルが獲れませんでした。30歳を超えるとだんだん跳ぶことの奥深さを感じるようになりました。記録を伸ばすには筋力を上げるべきなのか、スピードを上げるべきなのか、義足を変えるべきなのか…いろいろな選択があるなかで自分の体を使ってできる楽しさや難しさもあることが充実感へとつながり、自分の表現方法が僕の場合はジャンプなのかなと思っています」
次回も、鈴木徹選手にお話を伺います。
どうぞ、お楽しみに!
鈴木徹選手のリクエスト曲:香水 / 瑛人
自粛期間中に息子さんたちがよく聴いていて、家の中のBGMという感じで家族でよく聴いた一曲だということです。