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2021年3月17日
車いすラグビー・中町俊耶選手 (1)

3月13日(14日)放送のゲストは、車いすラグビーの中町俊耶(なかまち・しゅんや)選手。リモートでお話を伺いました。

 

現在は、車いすラグビー日本代表候補として東京2020パラリンピック出場を目指す中町選手。

車いすラグビー始めたのは、2015年のことでした。

 

小学生の頃から野球に励んでいた中町選手は、大学1年生のとき、野球部の練習中に頸髄を損傷し車いす生活となりました。

その時入院していた病院で、偶然同い年の選手と出会います。

怪我をしてからはスポーツをする気があまりなかったといいますが、その選手に猛烈に誘われ、病院の中にある体育館で行われていた車いすラグビーの練習を見に行くことに。

そこで、自分と同じ障がいを負っている選手たちがものすごいスピードで走っている姿を見て心が動きました。

「自分もがんばったらあのように動けるんじゃないか。そういうふうに希望を与えてもらい、僕もラグビーをやりたいと思わせてくれました」

そうして、いざ挑戦してみると「1回目のタックルは正直怖いと思った」そうですが、実際には体ではなく車いす同士が当たっているので衝撃があるだけ。

中町選手は「その衝撃が快感というか、日常ではまずあり得ない衝撃だったので、非日常をこのスポーツで味わえるというのがすごく楽しみになった」と当時を振り返ります。

 

競技を本格的に始めて2年目ぐらいには徐々に良いプレーができるようになり、「自分もがんばったら日本代表になれるかもしれない」と思い始めたと話します。

中町選手を車いすラグビーに誘ってくれた選手も、現在、日本代表強化指定選手としてがんばっていて、「彼と一緒にパラリンピックに出るというのが自分たちの目標」だと力強く語りました。

 

新型コロナウイルス感染拡大の影響により、日本代表の活動も昨年2月の合宿を最後に数ヶ月間休止となりましたが、7月にようやく再開。感染防止対策として人数制限が設けられるなどの状況はありますが、「少ない人数の中でも強度の高いトレーニングができているので、今すごく充実してトレーニングができています」と自信をのぞかせます。

 

競技を始めた頃から憧れていたというパラリンピック。

その大舞台に手が届くところまで来ているので、日々モチベーションを高く保ちながらトレーニングに励んでいるといいます。

「日本代表チームとして東京2020パラリンピックに出場して金メダルを獲る」ことを目標に掲げ練習に取り組んできましたが、個人の目標を持つようになってからはさらに意識も変わったと語ります。

「僕は“世界一の2.0プレーヤー”になるという目標を持っています。そういう明確な目標をしっかり持てたからこそ、苦しいトレーニングもやれるようになって、今もモチベーションを保ちながらできていると思います」

 

車いすラグビーには、車いすバスケと同じように「持ち点」というルールがあり、選手たちは障がいの程度や体幹などの機能により7つのクラス(※)に分かれています。

※0.5〜3.5まで0.5刻みで7クラス。数字が小さいほど障がいが重い。

中町選手は先程の言葉にもあったように、真ん中にあたるクラス2.0の選手で「ミドルポインター(ミッドポインター)」と呼ばれています。

ミドルポインターにはどういう役割が求められるのでしょうか?

「車いすラグビーの選手の中では、障がいが軽いわけでもなく重たいわけでもないので、すべての仕事を任されます。時にはボールを持ってスコアしたり、味方のハイポインター(障がいが軽い選手)に相手のプレッシャーが行っている時にはそれを助けるプレーだったり。そして、ボールを受け取って味方にパスをつなぐといったいろいろな仕事をその時々の状況に応じて選択しなければいけないので、対応力がすごく大事になるなと思っています」

そして、こう続けました。

「例えば、僕がボールを持つと、相手チームのハイポインターが僕にプレッシャーをかけに来るのですが、そこにひるむことなく立ち向かって行ってその選手を抜けた時は、やはり気持ちいいですね」

 

昨年の3月、東京2020大会の1年延期が決まりましたが、中町選手は大会が延期されたこの期間を前向きに捉えています。

「東京2020パラリンピックが(予定通り)昨年開催されていれば、正直、僕にはまだ試合に出られるほどの実力がなかったと思っています。延期された1年でしっかり力をつけて、今年行われるパリンピックで自分がしっかりコートに立てるようがんばって行こうと気持ちを切り替えました」

 

国内では長らく車いすラグビーの大会や試合が行われていませんでしたが、実に1年3か月ぶりに大会が開催されます。

それが、3月20日と21日に行われる「2021ジャパンパラ車いすラグビー競技大会」です。

この大会ではこれまで海外からチームを招いて行われてきましたが、今回は日本代表候補選手を3チームに分けて試合を行います。

この大会への意気込みを伺いました。

「東京2020パラリンピックまでに国際大会が開催されるかどうか正直わからない状況なので、アピールする場はかなり少なくなっています。今回は日本代表候補選手だけで行われる大会ですが、そこでしっかりとアピールして、パラリンピック出場につながるような、そういう活躍をしたいと思います!」

 

大会は無観客での開催となりますが、全試合オンラインでライブ中継があります。

中町選手からリスナーの方々にメッセージを頂きました。

「車いすラグビーの醍醐味であるタックルといった激しさの部分、そして(障がいの重い)ローポインターがハイポインターの走るコースを作ったりという車いすラグビーの奥深さも見てもらいたいです。僕の場合は、最後まであきらめずに走るハードワークにも注目してもらって楽しんで頂ければと思います」

大会の詳細やオンライン中継について、詳しくは「ジャパンパラ競技大会」のウェブサイトでご確認ください。

 

また、中町選手と鈴木亮平さんは「鈴木亮平の熱血パラリンピックスポーツチャレンジ」(※)車いすラグビー編でも共演しています。

※鈴木亮平さんがパラリンピックスポーツに挑戦する動画シリーズ

おふたりは同じチームとして試合に参加していますが、果たして勝敗の行方は…?

こちらの番組ホームページからもアクセスすることができますので、まだご覧になったことがないという方、ぜひ一度ご覧ください!

車いすラグビーの技についても選手が直接教えてくれています。これを見れば、試合を2倍も3倍も楽しめること間違いなしです。

「2021ジャパンパラ車いすラグビー競技大会」観戦の予習にも、ぜひご活用ください!

 

次回も、中町俊耶選手にお話を伺います。

どうぞ、お楽しみに!

 

中町俊耶選手のリクエスト曲:大丈夫 / ベリーグッドマン

怪我をする前は、野球一筋だった中町選手。この曲は、埼玉県の高校野球のテーマソングになった曲で、自分の背中を押してくれるような歌詞がいっぱい詰まっているといいます。試合前にこの曲を聴いて気持ちを高めて試合に臨んでいるそうです。

 

 

【番組からのお知らせ】

3月24(水)午後6時から、特別番組「鈴木亮平 Going Up アナザーストーリー」を放送いたします!

ゲストに、パラスポーツの普及活動でも活躍されている武井壮さんをお迎えしてリモートでお話を伺います。

こちらもどうぞお聴きください!

※ニッポン放送のみの放送となります。

2021年3月11日
陸上・中西麻耶選手 (2)

3月6日(7日)の放送では、前回に引き続き、陸上の中西麻耶(なかにし・まや)選手にリモートでお話を伺いました。

 

今から1年前。

東京2020オリンピック・パラリンピックの延期が決定しました。

中西選手は大会の1年延期が決まる前からコーチと一緒にいろいろな状況を想定していたといいます。

「中止」もささやかれていた中で、「中止になったらどういう心構えでいるか」ということも事前に話していました。

それにより「延期と言われた時、まだ望みや目標が消えたわけではなかったので前向きになることができた」と当時を振り返ります。

 

新型コロナウイルスによる様々な影響を考え、(昨年春の)緊急事態宣言が発令される前に地元・大分県を離れ、兵庫県に拠点を移す決断をしました。

実家で祖父母と一緒に暮らしていたこと、そして、緊急事態宣言となれば移動も制限されるかもしれないと見越して、コーチの近くにいた方が良いのではという考えからでした。

しかし、そこには不安もあったといいます。

「新しい生活拠点を作るというのは、人生の中で結構大きな変化ですよね。だから『ここで、もう一皮むけるんだ』って自分に言い聞かせて、とにかく精神的に強くなってやろうと思いました」

 

昨年9月、その判断が間違っていなかったことを証明するかのように、久しぶりの実戦の場となった「第31回パラ陸上競技選手権大会」で結果を残します。

中西選手は走り幅跳びで、自身のアジア記録を19cm上回る5m70をマークし優勝しました。

「コロナ禍で大会が軒並み中止になりましたが、その分、多くの時間を練習に充てることができて、これ以上できないくらいの質の良い練習が組めていました。なので、絶対に結果が出るというのはわかっていました。それに、大会の前日に練習で試合会場に行った時、私は久々の大会で『イェーイ!』と思っていたのに、会場の雰囲気がどんよりしていたんです。もちろんみんな苦労されて、この状況下で大会を開くのはどうなのかという気持ちもあったと思います。だったら、『私が一花咲かせますか!』と思って試合に臨みました」

 

その目線の先には、パラリンピックの存在がありました。

「私は35歳で、歳はいやでも取ってしまうので、パラリンピックが一年延期になって『中西選手、大丈夫かな…』と思った人もいると思います。だから、この状況下で、この年齢でまだ進化できるんだということを見せたかったんです。そんな姿をこの大会で見せることができれば、『この選手、何かパラリンピックでやってくれるかもしれない』って思えるじゃないですか。その爪痕をしっかり残しにいきました」

どこまでも強く、ポジティブな中西選手に鈴木亮平さんも打ちのめされたようで、ため息をもらしては感心し、何度も頷いて聞き入っていました。

 

3月20日(土)と21日(日)には、「第32回日本パラ陸上競技選手権大会」が東京・駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場で開催されます。

この大会に向けての意気込みを伺いました。

「東京2020パラリンピック日本代表の内定をいただいているので、パラリンピックを考えると、ピークを持っていくにはちょっと早すぎると思っています。ただ、この先大会がいくつあるのかわからない状況なので、とにかくひとつひとつ“楽しむ”ということを忘れずに、そして『やっぱり中西選手は元気だな』というのを見せたいと思っています」

 

そして、東京2020パラリンピックでの目標について、力強くこう語りました。

「もちろん世界新記録で金メダルしかないと思っています!東京オリンピック・パラリンピックのハイライトで私がバーンと出られるように、引き続き、ひたむきにがんばっていきます!!」

中西選手の活躍に、期待が高まります。

 

最後に、上をめざして進もうとする方に伝えたい“Going Upな一言”を伺いました。

『その時その時を大事にする』

中西選手はこの言葉に込めた思いをこう話してくれました。

「この一瞬、このひと時というのが、すごく貴重なもので価値のある時間だと思っています。私は何気なく過ごしていて、急に障がいを持つことになりました。学生時代、なんかつまらないなと思っていた時もありましたが、そういった一瞬が価値のある自分を生んでくれていたんだなということを気付かされましたね」

 

 

中西麻耶選手のリクエスト曲:I WANNA BE STRONG / J-REXXX

「パンチされる」ような、大好きな一曲だということです。

 

 

次回のゲストは、車いすラグビーの中町俊耶選手です。

どうぞ、お楽しみに!

2021年3月5日
陸上・中西麻耶選手 (1)

2月27日(28日)の放送には、陸上の中西麻耶(なかにし・まや)選手にリモートでご出演いただきました。

2019年の「世界パラ陸上競技選手権大会」では、女子走り幅跳びで金メダルを獲得し、東京2020パラリンピックへの切符を手にしました。

 

ご本人曰く「バリバリのスポーツ女子」。高校生の頃はソフトテニスでインターハイに出場しました。

21歳の時、お仕事中の事故により右脚の膝から下を切断。そして、その翌年に陸上を始めました。

そこにはこのような経験があったと話します。

「脚を切断した当初からソフトテニスに復帰したいと思っていました。義足を手に入れて、もう一度テニスの舞台に立とうと練習に行った時に、ちょっと隙のあるボールを返球してしまったんです。あっ、やってしまった…点を取られる、決め球を打たれる、と思っていると、どうぞ打ってくださいと言わんばかりのすごくゆるい山なりのボールが返ってきたんです。『こんなのスポーツじゃない!』と思いましたが、でもやはり、相手に気を使わせてしまうぐらい自分のテニスのレベルが落ちていましたし、そもそも走ることができませんでした。なので、まずは走るのに慣れなければダメだと思っていろいろ調べていると、義足で陸上をしている方がいらっしゃるというのがわかり、走りのプロの方に走り方を習いにいこうというのが、陸上を始めるきっかけとなりました」

 

そうして、初めてパラ陸上の大会に出場すると、いきなり100mと200mの日本新記録をマーク。

陸上を始めてわずか1年でパラリンピックの日本代表に選ばれ、2008年の北京大会に出場しました。

自身初のパラリンピックについて、このように振り返ります。

「実感がなかったんですよね。義足を手に入れたのが2007年の夏で、なんの準備もできずにいきなり北京のパラリンピックに出場できるようになって。初めて見る世界の舞台に、とにかく何もできない無力さを感じました。幼少期からやスポーツに取り組んできて、障がい者スポーツに足を踏み入れたとしても『私はここでも輝いていく』みたいな変な自信があって、それが全部へし折られました。パラリンピックに出場している選手たちは、オーラが全然違うんです。私なんかが近寄ってはいけないというような雰囲気もあって。すごくかっこよく見えて、自分もそうなりたいと思いながらも、自分はまだまだそのステージに行けないということもすごく感じました」

 

北京大会のあと、活動の拠点をアメリカに移すことを決断した中西選手。

国内では負け知らずだったため、世界に出て、世界で力をつけていきたいという思いからでした。

アメリカで活動を始めた頃、日本とアメリカでパラスポーツに対する考え方が違うのを感じた出来事がありました。

「最初にチームと合流した時、『パラリンピックの陸上選手の中西麻耶です』と自己紹介をしたら、はんって鼻で笑われたんです。『お前なんでわざわざパラリンピックってつけるんだ。陸上選手だろ』。陸上している人がたまたま義足なだけで、自分はパラリンピックの方の選手だということを言う必要があるのか、と。何気ないことですが、こういった少しの感覚の違いが、北京大会で感じたような、偉大なるオーラを背負うには必要で、文化の違いや競技に取り組む姿勢も学びましたね」

 

約4年間に及んだ、日本とアメリカを行き来する生活。

アメリカでは、あるコーチとの出会いがありました。

「たまたま1984年のロス五輪で、三段跳びの金メダルを獲得したアル・ジョイナーコーチに指導されることになったんです。ある日、ミニハードルを使って、段差をつけて足を意識的に高く上げる練習をしようということになったんです。日本にいた時は危険だということで、君は義足だからやめておこうとかと言われていたので、私も当たり前のように、義足で危ないから(自分はやらないで)見ておくと言ったんです。すると『何を言っているんだ、できないことをできるようにするのが練習だろ』と言われました。義足だから・・・というのが何の役にも立たないというか、言い訳にしかならなくて。言い訳をせず、ただひたすら努力を重ねて、できないことを一つでもできるようにしていくということを教えてもらいました」

 

そのような経験をして、自身3回目の出場となった前回のリオ大会では女子走り幅跳びで4位入賞。そして世界選手権では、2017年に銅メダル、2019年には金メダルを獲得し、東京2020パラリンピックへの切符を手にしました。

金メダルが確定した瞬間、中西選手は目に涙を浮かべていました。

世界の頂点に立った時のことをこのように語ります。

「気持ちよかったですね、表彰台の一番高い所に立った時は。もう二度とここから降りたくない、この王座を守り切るためにもっともっと努力したいと思いました。今度は自分が、いろいろな選手から憧れて、目指される立場になったということを、終わった直後からひしひしと感じ、やっとなりたい自分に近づいてきていると思いました」

 

東京2020大会での活躍が期待される中西選手。

次回は、コロナ禍での競技生活について伺います。