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甲子園春夏連覇 野村弘樹さんが名将・中村監督から贈られた言葉とは?

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今回のゲストは高校時代に甲子園で春夏連覇、
プロ入り後は、横浜ベイスターズでご活躍、
そして、ニッポン放送ショウアップナイター解説者としてもお馴染み
野村弘樹さんです!!


【野村弘樹さんのプロフィール】
野村弘樹さんは、1969年生まれ広島県出身。
野球の名門・PL学園に入学し、エースとして活躍。
1987年には、後にプロでも活躍する立浪和義さん、片岡篤史さん、
橋本清さんらと共に史上4校目の甲子園春夏連覇を達成。
卒業後は、ドラフト3位で大洋ホエールズに入団。
抜群の制球力と多彩な球種を投げ分ける投球術で左のエースとして活躍、
1998年には、チームの38年ぶりリーグ優勝、さらに日本一に貢献。
2002年、33歳で現役を引退、
現在は、ニッポン放送・ショウアップナイター解説者、
野球評論家としても活躍中。


-なぜあれほどPL学園は強かったんでしょうか?
いい意味での伝統があるんでしょうね。あと、寮生活の厳しさも
土壇場での強さに繋がっていると思います。

−練習量は?
平日は、午後3時から、土曜が午後2時から、日曜は1日。
冬場は暗くなる午後5時位には終わってましたよ。
ナイター設備がありますが、使ったことないですよ!
ただ、チーム練習が終わってからの自主練が本当の練習って感じでしたね。
寮に戻って橋本の靴がまだ無ければ僕も走りに行ったりしてね。
チーム練習はそれを見せる場でしたね。

−リクエスト曲は?
C-C-Bの「 Romanticが止まらない」ですね。
これは寮のどの部屋でもかかってましたね。
この曲を聞くと、寮を走り回ってた事を思い出します。
立浪も片岡も絶対この曲が出てくるはずです。


そんな野村さんに、金子がより突っ込んで聞いていくコーナー!
『金子の深堀り!』
-甲子園の春夏連覇に向けてチームの雰囲気は?
同世代仲も良かったので力を合わせて頑張ろうって言ってました。
目の前の試合を一つ一つで、春夏連覇は口にはしていませんでしたね。
もちろん大きな目標として甲子園優勝はありましたけど。

-甲子園に行くのは当たり前でしたよね?
いや〜、大阪予選大変でしたしね。決して順風満帆では無かったです。
僕も上宮高校に打たれて結構危なかった時ありますよ。
決勝も、近大附属と0ー0で、最後僕がサヨナラを打って勝ったので、
決して余裕では無かったです。

-大本命としての重圧は?
それはありました。ただ、試合に入れば、その日のベストを尽くそう
という気持ちだけでやってましたね。
勝たなければいけないというより、勝てると思ってマウンドに上がってましたね。
立浪とか仲間との信頼関係もありましたし、いい意味で言い合えていました。

-強い印象しかないんですけどね
絶対的な強さでは無かったですよ。
春夏連覇という言葉が残るんでね、
強い印象が残るんですが、運もあったでしょうしね。

-PL学園で背番号「1」を付けるプレッシャーは?
球は橋本の方が速い、岩崎は、真っすぐもスライダーもいい、
僕が「1」を付けていましたが、誰が付けても良かったんですよ。
春は最後のマウンドは、橋本、夏は岩崎が立ってたんですよ。
夏の甲子園で優勝する瞬間も僕はレフトでしたしね。
先発は僕が多かったですが、3人で回してた感じでしたね。


そんな野村弘樹が今でも忘れられない言葉、大きなチカラになった言葉とは?
『球道即人道(きゅうどうそくじんどう)』
これは、PL学園の監督、中村順司さんから贈られた言葉です。
自分の道を作りながら、人間としてしっかり育ちながら野球をしなさいと。
人としてちゃんとしていないと、野球も出来ませんよと。
この言葉は、卒業するときに色紙に書いてもらって、いまも飾ってあります。


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