今回のゲストは、バルセロナ五輪で金メダル、
アトランタ五輪で銀メダルを獲得した柔道家”平成の三四郎”こと古賀稔彦さんです!
【古賀稔彦さん プロフィール】
1967年、福岡県生まれ、佐賀県出身。
中学校1年生の時に東京都世田谷の”柔道界の虎の穴”「講道学舎」に入門。
小柄な体から繰り出す切れ味鋭い背負い投げを武器に相手を倒し、”平成の三四郎”と呼ばれた。
1992年バルセロナ五輪、試合直前に吉田秀彦さんとの練習中、左ひざに大けがを負う。
痛み止めを打ちながら出場し、金メダルを獲得。
日本中を感動の渦に巻き込んだ。
1996年アトランタ五輪では銀メダルを獲得。
2000年に現役を引退。
2003年から子供の人間育成を目的とした町道場「古賀塾」を開塾。
全日本女子柔道のコーチとしてアテネ五輪で金メダルを獲得した谷本歩実さんなどを指導した。
【オリンピックで金メダルを獲得した古賀さんだが、決して順風満帆ではなかった?】
初めて出場した1988年、ソウル五輪。
金メダル獲得が有力視され、大会前は何度もテレビや雑誌の取材を受けている状況だった。
当時、古賀さんは21歳。まるで「スター」のような気分だったという。
そして迎えたソウル五輪。
元々、注目されるのが好きで大会前は「俺を見てくれ!」と強気の姿勢だったが、その心境は一変。
試合が近づくにつれて、目に入ってくるのは他の階級で敗れた選手が新聞などで批判される姿。
徐々に、古賀さんは周囲のプレッシャーを感じるようになっていった。
そして試合当日、そのプレッシャーはピークに達した古賀さんは、
「今日、試合するのが怖い」とコーチに告げたという。
のちに周囲は、当時の弱きな古賀さんの姿を「信じられない」と語っていたそうだ。
そして迎えた一回戦の相手は、地元・韓国の選手。
独特なアウェーの雰囲気で行われたその試合は、
もはや「スポーツ」ではなく「生死をかけた戦い」のようだったという。
なんとかその試合に勝利し、続く二回戦でも勝利したものの、
「周囲のプレッシャー」と「初めてのオリンピックの雰囲気」にのまれ、
体力を完全に使い切ってしまった古賀さんは、続く3回戦で敗れてしまった。
金メダル獲得が期待されたにもかかわらず、まさかの3回戦敗退。
そして古賀さんが敗戦よりもなによりショックだったことは、
たくさんの人に見送られて出発した成田空港に帰った時、
誰も自分に駆け寄ってくる人がいないという現実だった。
「俺が一番、悔しい思いをしているのに・・・。なんだ周りの連中は!」
その後は、なるべく人目につかないような過ごし、部屋にこもりがちの生活になったという。
【そこから、どのように立ち直ったのか?】
部屋にこもり、テレビを点けると「オリンピックの総集編」という番組で、
「オリンピック、惨敗柔道」という特集が放送されていた。
当然、古賀さんの負けたシーンが映されて、目を背けようとしたところで、
あるシーンが目に飛び込んできて、古賀さんはショックを受けた。
それは、古賀さんが試合に敗れた瞬間、
ご両親が、観客席で応援している柔道ファンに向かって何度も頭を下げていた姿。
金メダル獲得を期待されながらも、3回戦で敗退。その後の周囲の変化に戸惑い、
半ば自暴自棄になってた古賀さん。
しかしその時、テレビに映る両親の姿を見て
「もう両親にこんな事をさせたくない」「両親の喜んでいる姿を見たい。」
必ずオリンピックで金メダルを獲得してやる。
それが、立ち直るきっかけになった。
4年後、日本中を感動の渦に巻き込んだ、バルセロナ五輪・金メダル獲得への第一歩だった。