5月12日
1985年 阪神日本一
1985年

●日本人初の宇宙飛行士が決定
●三浦和義逮捕
●ドラフト会議で巨人が桑田、西武が清原を指名
●日航機墜落事故
●豊田商事事件


スポーツの世界では、桑田・清原のPL学園が夏の甲子園で2年ぶりの優勝。
新両国国技館完成して、北の湖が引退。千代の富士時代になった。
新日鉄釜石がラグビー日本選手権7連覇。松尾雄治引退の花道となった。

その1985年を象徴する出来事といえば、「阪神日本一」である。
二度目の監督就任となった吉田義男が長らく下位に低迷していた阪神タイガースを21年ぶりのリーグ優勝へと導き、日本シリーズでは西武ライオンズを倒して初の日本一に輝いた。

巨人と並ぶ名門でありながら、21年間、リーグ優勝から遠ざかり、日本シリーズ優勝はヤクルトや広島にも先を越されてセ・リーグで唯一日本一の経験がなかった。「ベンチがアホやから野球がやれん」の江本発言に代表されるように、チーム内のゴタゴタは日常茶飯事。「ダメ虎」と呼ばれ、世間は「阪神=弱いチーム」というイメージが定着していた。

その積年の恨みを晴らすような圧倒的な勝ち方だった。
新ダイナマイト打線がハマ風に乗せて次々にスタンドへ打球を運んだ。
一番の真弓から、バース・掛布・岡田のクリーンアップ、六番・佐野ほか勝負強い脇役も働いて、打ちも打ったり、チーム本塁打219本は当時のシーズン最多記録だった。
戦略や戦術など関係なし。3点取られたら5点取り返す、お祭りのような勝ち方だった。
象徴的なのが、「バックスクリーン3連発」。甲子園の巨人戦で槙原からバース、掛布、岡田がバックスクリーンとその付近に3連発を打ち込んだ。あれは槙原という投手も偉かった。ちゃんと勝負したからこその3連発だった。
投手陣は池田、ゲイルらが先発の柱だったが、12〜13勝といったところ。その代わり、救援陣が充実していた。中西、山本和、福間らの継投を吉田監督がうまくつないだ。JFKほどの完璧さはなかったが、それ以上に打線の援護もあった。
規格外の強さが、日本シリーズで当時最強と思われた広岡達朗率いる西武ライオンズをも倒したのだろう。80年代、6度シリーズに出場した西武を倒したセントラルのチームはこの時の阪神だけだ。

その後、再び冬の時代に突入する阪神だが、日本一の余韻は続いた。10年経っても、関西の街角では、六甲おろしが流れ、モニターではバックスクリーン3連発のビデオが映し出されていた。次のお祭りまでは18年を要した。








 
前のページ 最新のページ 次のページ