3月3日と、4日にかけて、

大船渡、陸前高田、南相馬に伺いました。

 

「ごごばん!」「あなたとハッピー」

「魂のラジオ」で取材をさせていただいた方に、

会いに行く旅でありました。

 

日頃、昼ごはんはスタジオでおにぎりを、

コンビニのサラダとともにほおばるぐらいですが、

この2日間の昼食は充実していました。

 

土曜日は、福山雅治さんが「龍馬伝」の、

大船渡でのロケで知り合い、

福山さんの「魂のラジオ」でもおなじみの、

「百樹屋」さんのカレー南蛮を食べました。

 

津波で店舗を失いましたが、

新店舗で元気にお店を再開されました。

 

汗を一杯かきましたが、

おいしいのなんの!

 

次の取材先は「ごごばん!」の横浜のリスナーが、

同時プリントをお願いしていた、

大船渡の写真店「太陽堂」の佐藤さんでしたが、

そのことを「百樹屋」さんに話したら、

なんと幼馴染で「百樹屋」さんの、

新店舗は佐藤さんの所有する空き店舗だとおっしゃる。

 

「魂ラジオ」と「ごごばん!」で、

別々に知り合った方は繋がっていたのです。

 

写真店の佐藤さんの震災後は、

「ご遺影」を制作し続ける毎日でした。

 

お一人お一人の事情を聴く佐藤さんの、

心の負担は想像を絶するものがあります。

 

500人までは数えていたそうですが、

それ以降は辛さのあまり、

数えることを止めましたと語っていました。

 

大船渡では、これまた「ごごばん!」で、

幾度となく電話でご出演頂いた、

洋菓子店の「大浦屋」さんにも伺いました。

 

宮川花子さんと訪ねて以来です。

 

大浦さんは消防団員として、

地震後に防潮堤を閉めるために、

海に向かった方です。

 

様々なタイミングが少しでも狂えば、

いったいどうなっていたでしょう。

 

店舗は流されましたが、

全国の同業者の皆さんの、

支援もあって店は再開しました。

 

3月3日に伺ったら、

雛祭りのケーキの予約がたくさん入っていて、

売り切れの商品も続出状態でした。

 

4日は福島から南相馬へ向かいました。

 

8月にラジオ福島の大和田さんが、

案内をして下さり様々な場所に行きましたが、

それ以来の南相馬です。

 

途中、飯舘村を通過しますが、

住人は避難されていますかが、

雪景色の村は本当に美しいのです。

 

南相馬ではジャーナリストの山路さんが、

震災後、原発の混乱の中、

メディアが撤退する中で取材を続けた中で、

知り合った方々を訪ねました。

 

ラーメン店「すず」のご主人。

充実昼食二日目は、

醤油ラーメンと餃子にライス、

「やまじスペシャル」をいただきました。

ラーメンの汁は飲みほしてはいけないと、

家人にいつも言われているのですが、

あまりにおいしくて・・・

 

私、昼は極端に粗食に慣れているのですが、

完食でした。おいしかった!

 

本職は林業の箱崎さんは、

南相馬の除染の大変さを聞きました。

 

除染ではなく移染だということ。

水圧で除去してもそれは、

放射性物質が移動しただけで、

消えたわけではないということ。

 

もっともであります。

 

南相馬は7万人の人口のなかで、

5~6万人の住人が戻ってこられたそうです。

 

では今後南相馬を、

どのような街にしいて行くかを、

真剣に考えている箱崎さんたちでした。

 

除染、復興、産業、

すべての面で世界が注目するような、

「南相馬モデル」を打ち出そうと、

考える地元の人がいました。

 

そのような中、ラジオ福島の大和田さんから、

南相馬市の職員が138名退職するとメールがありました。

37人が定年退職とのこと。

 

市の機能がどうなってしまうのか心配です。

 

震災後、インフラは生きていた、

南相馬市原町地区ですが、

原発の爆発で救援物資が、

全く入ってこない状態になりました。

 

こんにゃく一枚で1週間をしのいだ、

高齢者の方もいるそうです。

 

市の運営する市場を3月20日に再開したのが、

「市民市場」の代表石沢さん。

 

すべての店が閉まり、

物資の援助もない状況で、

大田市場などに毎日通い、

食料を町に届けた方です。

 

特にご高齢の方々が、

どれほど救われたことでしょう。

 

福島第一原発から20キロの警戒区域から、

少し移動すると津波の被害に遭われた、

上野さんのお宅があります。

 

夏に大和田さんに連れて行っていただいたのですが、

再び伺うことができ、ご両親と、

8歳と3歳のお子さんの写真に、

手を合わせることができました。

 

上野さんは地震後職場から、

自宅に戻りご家族が津波から避難する、

準備をするのを確認して、

職場にもどられたのですが、

津波が予想外に大きいと知り、

再び自宅に戻られた時には、

すでに行方が分からなくなっていたという方です。

 

その後上野さんは仕事をやめ、

毎日海岸線をあるいてお子さんたちを探しました。

 

夏にお会いした時には、

真っ黒に日焼けしていました。

 

自衛隊や警察関係者も、

捜索して下さったのですが、

原発の爆発以降は、

状況が一変してしまい、

人員は原発対応にさかれてしまいました。

 

今は、何とか20キロ圏内を探したいということと、

福島というと、すべて原発の話題になってしまうけれど、

津波で命を失われた人の事も、

忘れないで欲しいと強く訴えていました。

 

津波の中、上野さんの自宅は、

外観だけは何とか保っていて、

それがマスコミや被災地を訪ねる人の、

絶好の撮影ポイントになってしまったことに、

かつて上野さんは激しい怒りを感じていました。

 

しかしあれから1年がたつ今、

自宅は当時のままの状態だったので、

そのことを上野さんに伺いました。

 

「みんな福島でも津波があったことを、

忘れてる。津波で被害に遭った人もいることを、

忘れないためにも、このまま残そうと思ってる」

とおっしゃっていました。

 

様々な立場。

様々な思い。

 

「ごごばん!」と、

3月11日の特番で、

少しでも伝えられたと思います。

 

ニッポン放送

上柳昌彦