先日「ごごばん!」にお越しいただいたきたやまおさむさんの「アカデミックシアター2011 ~悲しみを水に流さず~」が土曜日に日本橋三井ホールで」行われました。

 

「ミゾギ」とか「キヨメ」とか「ハライ」という言葉があるように、日本人は1000年以上も語り継がれる神話や昔話の中で、悲しみは水に流してなかったことにする考え方を伝えてきたときたやまさんはこれまで幾度となく語っていました。

 

その「悲しみを流さない」とはどういうこと思いました。

 

年間3万人以上が自ら死を選ぶという、先進国の中では異常な状態が続いている日本の現状から話は始りました。

 

自分は「世の中の役に立っていない」という「罪悪感」から「死」を選んでしまうことこそ、「去ってゆく」ことや「死んでゆく」ことで終わっている「神話」や「昔話」に影響されているときたやまさんは語り始めます。

 

確かに私たちは「桜」や「花火」の儚さに惹かれ、それこそが美しいと多くの人が思います。このように儚さで結末を迎える物語を「クリーンエンディング」と言うそうです。

 

「潔く去ること」が美学であると無意識に思っているのです。しかしこれは「残る人にとって都合のよい物語」だときたやまさんは分析します。

 

そこでこう述べます。「物語はひとつではない」と。去りゆくことだけが美化されるエンディングを書き変えようではないかと。

 

辛く、耐えがたい状況も時間をかければ必ず変化する。何かが変わってゆく。起こってしまった理不尽なこと、理解しがたいことを慌てて理解して処理してはならないと繰り返し語っていました。

 

東日本大震災以降、私も仙台、千葉の飯岡、大船渡、陸前高田を取材しました。しかし取材を終えれば帰ってきてしまう自分。見たこと聞いたことをわけ知り顔で語る自分に対し「何なんだお前は」という気持ちが常にありました。

 

この感情、つまりは被災された方々への「後ろめたさ」を、いま多くの日本人が持っていて、この感情とある種戦っているときたやまさんは言います。

 

人は絶えず自分の中に矛盾を持ち、己の不純を抱え込んで生きてゆかなければならないと聞きました。

 

私が足を運ぶことで被災地の状況は何も変わらないし、私に何ができるわけでもありません。それでもまた再び東北に行き、その体験をスタジオで語ることを許して頂けたような気持ちになりました。

 

「鶴の恩返し」という昔話がきたやまさんの話では必ず題材になります。今回嗚呼と思わず声を上げそうになった解説がありました。「つう」が鶴に姿を変えて自らの羽を抜いてはそれで機を織ることは、欲望のまま自然を破壊し続ける私たちのあり方を暗示しているという指摘です。

 

原発のありかたには様々意見はあるでしょうが、羽を犠牲にして反物を織り続けて飛べなくなってしまった「つう」の姿に今の現状を重ね合わさずにいられません。

 

とはいえ飛べなくなるほど羽を抜いてしまった鶴が、飛んで行ってしまったという物語の最後は変だよねという話になったのには笑いました。ことほどさように世の中は矛盾に満ちているのでありましょう。

 

私たちは懸命に「大人」を演じています。懸命に働いてリタイア後に「子供」に戻って好きなことをするために働いてるのですときたやまさんは言います。そうなのです。私たちは大人でありながらも子供であるのです。この両方を生きることができるのです。

 

いいのです。私たちは大いなる矛盾と理不尽さと純粋と不純を抱え込んで生きて行けば。「物語はひとつではない」のです。生放送の毎日は本当に様々なことが起こります。その毎日の物語をすべて受け入れてこれからもマイクの前に立ってみようと思わせていただいた夜でした。

 

日本列島は島として独立したのは5万年前。稲作が始まったのは諸説ありますが数千年前です。この国土に生き続けた日本人の気質に、地震、火山の噴火、台風という自然災害が繰り返し起こることが大きな影響を与えたのではないかと、番組でおなじみの脳科学者の澤口俊之先生はおっしゃいます。度重なる災害を受け入れることで日本人の性格が形成されたのではないかと言うわけです。

 

国土の成り立ちと性格の形成。このあたりはまた機会があればきたやまさんにも伺ってみたいものです。

 

近々、きたやまさんとはジョンレノンのドキュメンタリー映画の試写会のトークショーでお会いする予定です。詳しくは「ごごばん!」でチェックして下さいね。

 

ニッポン放送

上柳昌彦