以前、番組に電話で出演していただいた千葉県旭市の安藤洋さんを訪ねました。

安藤さんは時計とメガネ屋さんを営んでいます。今回の地震で一階の店舗は津波の被害を受け現在は2階の住居部分で生活しながら1階店舗の改修工事をすすめています。

 

旭市は銚子や犬吠埼の少し南に位置し、市内の飯岡漁港はイワシの漁獲高が日本一。またサーファーが多く集う海です。

 

地震発生から津波が何回も押し寄せましたが、4波目が市内に大きな被害を与えました。「音もなく海水面があっという間に1階の天井まで上がった」

と安藤さん。

 

チリ地震の経験がある方は、ここまで波は来ないだろうという思い込みがあって逃げ遅れた人もいたようです。

 

市内では13人の方が亡くなり未だ2人の方が行方不明です。

 

安藤さんは今「旭津波被災者支援センター」を仲間とともに立ち上げて被災者が必要としている物資を全国から受け入れています。(現時点では自転車、扇風機、洗濯機が必要とのこと)

 

センターと言う名前は立派なのですが、場所は被災した安藤さんの店舗部分。がれきと泥をやっとかき出してこれから大工さんが入って修繕が始まる中にテーブルを置いてあるだけ。

 

修繕に入っている元気な大工さんの磯野満徳さんもセンターのメンバー。よく話を聞けば皆さんもともと「旭の街おこし」のために集った人々。磯野さんの幼馴染の大久保さんはサラリーマン。元銚子高校の数学の先生で定年後に東大大学院に入学し、海流や砂丘などの環境を研究を続ける平塚四郎先生はメンバーにとって大切なご意見番。

 

安藤さんの店に入れ替わり立ち替わり登場するみなさんの人間関係が分かってくるにつれ、地域の結びつきを強くしてなんとかこの困難を乗り越えようとする心意気が伝わってきます。

 

漁船「山政丸」を飯岡港の中に入り込んだ津波の渦から命がけで守った漁師言葉も凛々しい伊藤さんも幼馴染の一人。

 

意見の一致するのは、波返しがあった防波堤がいつしか階段状の防波堤になってしまったことで7メートルの津波がより乗り越えやすくなったのではないかということでした。

 

階段状になった理由としては、海岸に出やすくして「親水性」を高めるためと、

波返しで発生する波しぶきが塩害をひき起こすためなどが考えられるようです。

 

皆さんに地震発生時やその後の事様々聞いていると、自転車を必要とするご近所の方がセンターを訪れたりもします。

 

もちろんどんな街にもあるように住民の方々の災害に対する温度差」はあるようですが、自治体任せではなく地域のために活動する人が存在することは大切なことと痛感します。

 

続いて尋ねたのは150人規模の宿泊が可能な民宿「大潮」の大久保源一さんご夫妻。震災翌日の3月12日から秋まで連日、大学、高校から少年野球まで多くの部活動の合宿の予約はすべてキャンセルになりました。宿泊施設が液状化で床が抜け壁にひびが入ったためです。営業ができないにもかかわらず電気代を月に10万円かかります。また建物の解体、新設、改築のお金も莫大必要ですが今のところ商工会から見舞金が5万円支払われただけ。

 

自治体によって違いはあるのですが、家屋の全壊、大規模半壊、また避難所や仮設住宅に入居する被災者には、十分ではないにせよある程度の援助の手が差し伸べられますが、半壊、一部損壊の家屋の場合、基本的には自助努力を求められる厳しい現実を見ました。

 

行政としては「公平公正性」を旨として復興復旧活動をしなければならないとはいえ、支援の網から漏れ落ちてしまう人も多いのです。

 

民宿「大潮」の大久保さんは県有地を譲り受けてでも野球場を再開したいと語ります。

 

合宿に訪れる野球部は近くの市営グランドを使用していたのですが、今グランドは津波で発生した「がれき」が積み上げられていて、今後いつ撤去されるか見通しがたたない状況なのです。

 

現場の関係者に取材すると一口に「がれき」と言っても法律的にかなり曖昧な存在であることがわかりました。

 

「がれき」は一般家庭から廃棄され処理は各自治体に責任がある「一般廃棄物」と、処理は事業者に責任のある「産業廃棄物」のはざまにあるような存在で、最終的にどこで誰が処分するかが今一つはっきりしていないとのこと。あれだけの量の廃棄物を処分する施設は小さな自治体や東北地方に少ないそうです。

 

「がれき」にはアスベストや農薬なども含まれる可能性があるため、グランド再開には表土を削り新しい土を入れるなどが必要のようです。

 

たまたま私のラジオをお聴きの方だったので、丁寧に説明をしていただけましたが、まだまだこのあたりもっと勉強しなければと痛感します。

 

もちろん「がれき」といってもそこには思い出がたくさんあるわけで、その中から発見された写真や位牌などは丁寧に洗って保管をしていました。その細やかな対応には頭が下がる思いでした。

 

昼食に立ち寄った飯岡港の脇の倉庫内にあるレストラン「味っ子」は、もともとは海岸近くの川のそばにありましたが津波にすべてを流されました。ご主人は「山政丸」の伊藤さんのこれまた幼馴染。伊藤さんが漁網を保管していた倉庫を改装して店を再開した「ポークジンジャ―」がおいしい店でした。

 

なんだかすべてが繋がってゆく感じです。

 

「味っ子」の奥様は「元の店があった土地が、波でどんどん削られていくので、市役所にどうすればいいのかを聞いたら、わからないと言われました」と語ります。自分の土地が海にのまれてゆく・・・税金を含めて土地の権利はどうなるのでしょう。

 

半日の滞在でしたが皆さんにご迷惑をおかけしながらも、多くの話を聞くことができました。

 

帰り際、平塚先生は、「広大な面積の東北地方の津波の被害に比べて旭市の被害の範囲はまだ狭いと言える。ここは津波による被害の復興復旧のモデル地域になるのでは」とおっしゃったことが非常に印象的でした。

 

見たこと聞いたことを、放送でも随時お話できればと思います。

 

ニッポン放送

上柳昌彦