「あっ・・」

3月11日午後2時47分30秒、「ごごばん!」金曜日パートナーの山瀬まみさんが小さな声をあげた。その1分数10秒前に東北地方で発生した巨大地震が有楽町のスタジオにかすかな揺れとして届いた瞬間。

 

「とても座ってはいられなかったです。マイクを両手でつかんで地震と津波のことを伝えました」

震度6弱の揺れの中で懸命に放送を続けた東北放送のアナウンサーOBで当日ニュース担当だった鈴木俊光さん。

 

「別棟のニュースのスタジオに行こうと壁に手をつきながら廊下を走ったのですが、その壁が左右にぐらぐら揺れて前になかなか進めませんでした」

同じく東北放送アナウンス部長藤沢智子さん。

 

「塩釜が職場だったのですが、自宅が心配で蒲生に車で戻りました。反対車線は大渋滞していたのですが、私は今思えば津波に向かって走っていたので何とか家にたどり着きました」

「家が海のそばに建っているなんて思ったことはありませんでした」

津波で000人の死者が出た仙台若林地区の隣町に住む主婦。自宅周辺は津波で壊滅状態になっていたが、この方の宅だけが奇跡的に流されなかったものの一階は土砂で埋まっていた。

 

「自宅の2階で孫と一晩中、火のついた家が目の前をどんどん流されてゆくのを見ていました。ショックだったろうに何も言わない。次の日、富山の消防隊に助けてもらいました。道がわからないというので私が案内して逃げました。

その時まだくすぶってる所に足を入れて火傷をしました。玄関に隣のアパートが突っ込んできているけど、中にまだ行方不明の方がいて勝手に動かせないんです」

お孫さん達と名取市民文化会館の避難所で暮らす女性。

 

「津波の避難訓練は何回もやってたけれど、あの時は津波だっていう放送もなかったしサイレンも鳴らなかった。停電したんだな。で、津波は大丈夫と思った人が多かったんだ」

「避難所に駆け込んだ人たちは、まず生活空間を確保してしまったんだ。だから歩くのが遅い高齢者の人たちは避難所に入れなくて、別の避難所に向かう途中で波にのまれてしまった。ぎゅうぎゅう詰めにすればみんな入れた。危険から逃れる避難所なのに、その瞬間生活のための避難所になってしまった」

同じく名取市民文化会館の避難所の男性。

 

「まだ始まってもいません。ローンも後20年残ってるし。家を直そうにも車を買おうにも現金がありません。今からがスタート。どうしたらいいのか・・・」

前出の主婦。

 

「これからどのような放送をするべきなのか、正直まだわかりません」

戸惑いながらも寄り添って慰めあって励ましあいながら放送を続ける東北放送の方々。

 

「点」取材した災害の地に横たわる様々な事情。

そして私自身や局が被災した時に、いったい何ができるのだろうという気持ち。

 

ニッポン放送

上柳昌彦