 |
 |
 |
 |
飯田コージ |
1981年12月5日、神奈川県出身。2004年ニッポン放送入社。年齢当てクイズでは必ずプラス20歳上で答えられる。不自然な笑顔が魅力のニッポン放送アナウンサー。 |
|
 |
|
|
 |
 |
 |
 |
|
 |
 |
香港競馬通信 |
|
 |
5月10日 |
今日は悲しいニュースをご紹介しなくてはいけません。
香港の次世代を担うであろうとされていたラッパードラゴンが、レース中の事故に遭いました。
日曜日のメインレース、G1チャンピオンズマイルのレース中、第4コーナーに差し掛かったところ、ゴールまで残り750mで故障発生、そのまま競走を中止しました。
パドックからすでに元気が無いように見えたラッパードラゴン。
単勝1.4倍の圧倒的一番人気は重荷となってしまったのか、道中も行きっぷりがいつもの様子ではなく、アップアップしながら何とか馬群についていくように後ろから2頭目を進んでいました。
そして、鞍上のホアオ・モレイラ騎手が勝負どころと追い出した直後、馬は全く反応せず、むしろ嫌がるように外へと逃げ、同時に苦しみ出したように見えました。
その直後の競走中止。
レース直後の沙田競馬場は勝ち馬の様子よりもラッパードラゴンを気遣うファンたちの何とも言えない空気に包まれました。
その雰囲気は、かつて秋の天皇賞で圧倒的なスピードで逃げながら3,4コーナー中間で骨折、競走を中止したサイレンススズカを思い出しました。
あの時のような悲しい結末(サイレンススズカは予後不良と判断され、その場で安楽死処分)にならなければいいが…。
レースを見ていて、そういった思いにとらわれました。
現場で取材をしていると断片的に情報が入ってきます。
騎乗したホアオ・モレイラ騎手が厳しい表情で検量室まで帰って来て、ジョン・ムーア調教師と身振りを交えて話し合っている様子。
そこにオーナー関係者が入り、目頭を押さえている様を見ると、厳しい容体が伝わってきました。
一方、現場の記者からは自力で馬運車に乗ったから大丈夫だろうといった話が伝わり、情報が錯そうしていました。
その後、ジョッキークラブから正式な情報がもたらされました。
ラッパードラゴンはコース常駐の獣医陣からの応急処置を受け、たしかに自力で馬運車に乗ったようです。
その後、競走馬病院へ急行、診断は「骨盤骨折」と下されました。
これは非常に重篤なケガでした。
ジョッキークラブの競走馬衛生担当のトップ、クリストファー・リッジス獣医は、
「ラッパードラゴンは非常に重傷の骨盤骨折と、それがもたらす合併症に苦しんでいた。残念ながら手の施しようのない容体で、馬を救うことが出来なかった」
とコメントしました。
競走馬は非常に細い4つの肢で500キロになろうという大きな馬体を支えています。
これが骨折してしまった場合、残り3つの肢で馬体を支えようとすると一つの肢にかかる負担が大きくなり、血行が悪くなり蹄が腐ってしまいます。
また、馬体を吊り下げるなどして支えようとすると、今度はその部分が床ずれを起こし、化膿した部分から感染症を発症したり、敗血症にかかったりします。
結果、馬を苦しめるだけで最後には安楽死を選ばざるを得なくなるのです。
今回のラッパードラゴンの場合は、骨盤骨折というさらに重い症状で、手の施しようのない場合、その場で安楽死処分をせざるを得ません。
実際、そうなったようです。
国際レース終了後、ジョッキークラブのCEO、ウィンフライド・エンゲルブレヒト=ブレスゲス氏からプレス向けブリーフィングがありました。
普段は上機嫌のEB氏もさすがに意気消沈。冒頭で、
「ラッパードラゴンの短い生涯に関わったすべての関係者、とりわけオーナーのアルバート・ハン氏とご家族に対し、深い哀悼の意をささげます」
と、スターホースを失った悲しみを表現しました。
香港競馬初のクラシック三冠馬。本当に将来を嘱望されていました。
いつの日か香港代表として日本に遠征し、日本のトップマイラーと走ってみてほしい。
あるいは、ドバイか、ロイヤルアスコットか、きっと香港から世界へ羽ばたくであろう。
誰もがそう思っていましたが、もう叶わぬ夢となりました。
謹んで、冥福を祈るのみです。
|
|
 |
|
|
 |
 |
 |
|
|
|