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2018年5月22日
平昌2018冬季パラリンピック 金メダリスト・新田佳浩選手 (2)

クロスカントリースキーの新田佳浩(にった・よしひろ)選手を迎えてお送りした第2回目。

新田選手は、3月に韓国で開催された平昌2018冬季パラリンピック・クロスカントリースキー、1.5kmスプリントクラシカルで銀メダル、10kmクラシカルで金メダルを獲得しました!

 

3月14日、アルペンシア・バイアスロンセンター。

男子1.5kmスプリントクラシカル(立位)決勝。

新田選手は、激しい先頭争いの中、最終コーナーを曲がり、トップで観客が待つ最後の直線に入りました。

パラリンピック2大会ぶりの金メダルを掴みかけたその時、後ろからものすごい勢いで追いかけてきたカザフスタンの選手が新田選手を追い抜きそのまま一着でゴール。

わずか 0.8秒差…

新田選手は、倒れ込んだまま叫び、悔しさをあらわにしました。

 

8年ぶりのメダルは嬉しさ半分、悔しさ半分。

ただ、大会を振り返り「平昌よかったな」と思わせたことがありました。

それは、レースの後、新田選手のもとに駆け寄った2人の息子を抱き寄せ、抱っこできたこと。

「銀メダルだけど、よく頑張ったね」

ソチ大会後に空港で、手作りの金メダルをプレゼントしてくれた長男の言葉でした。

 

大本命の10kmクラシカルまで、あと3日。

銀メダルに終わったレースの翌日は、まだ悔しさが残っていたそうですが、振り返ってみると「自分を出し切るだけのことは全部やった」という考えに至りました。

(じゃあ、何が足りなかったのか?)

レースまでの過ごし方を思い返しました。

3月9日に開会式があり、14日の本番まで、自分のレースに集中するため、他の選手の応援には行かなかった…

(それは、やっぱり違う。チームで戦っているんだから、ちょっとでも時間があったら応援にいきたい)

そうして、応援に行った新田選手。

そこには、自分のベストを尽くして頑張っている選手たちの姿がありました。

(選手でいられるのって、幸せだな)

そう思えたことが、気持ちを切り替える大きなきっかけとなりました。

 

3月17日、10kmクラシカル。

平昌は快晴、朝の気温はー14℃。

スタートタイムからレース中の気象条件の変化やコースのコンディション予想し、スキー板に塗るワックスを調整をして、本番の時を待ちます。

10時26分。

新田選手は勢いよくスタートから飛ばします。

ところが、スタートからまもなく、最初の上りカーブで転倒。

レース後半に勝負するため、強めのワックスを塗ったことにより、ブレーキがかかりすぎて板が滑らなかったのが原因でした。

ゴールまで3周まわる周回コースで行われたこのレース。

トップとの差は広がっていき、2周目を終えて3位の位置につけていた新田選手は、前の選手と5秒、後続の選手との差も5秒。

スタッフ陣は葛藤します。

金メダルを獲らせるための指示を出すべきか、それとも、なんとか3位以内を確保するための指示を出すべきか…

 

最後の1周。

「全てを出し切ったら大丈夫。結果的にメダルが獲れなくても、出し切ったと思えればいい。とにかく出し切ろう。後悔のないようにこの最後の一周を滑ろう」

諦めずに挑み続けます。

すると、コース最初にある一番きつい上り坂で、トップとの差が12秒から8秒に一気に縮まります。

これだったらいけるかもしれない。

そう判断した監督、スタッフは、金メダルを目指すため、トップを追わせるように指示を出していこうと方向を定めました。

 

「僕ならできる、絶対できる! 絶対できるんだから、こんなの苦しくない」

レース中、自分にそう言いきかせることで、気持ちを”リセット”しました。

ついに、残り1.2kmでトップに立った新田選手は、大観衆の待つゴールへ。

” -8.7 ”

電光掲示板にはタイムを上回っていることを表す緑の数字。

勝利を確信した瞬間でした。

 

念願の金メダルを獲得した新田選手は喜びに浸りながらも、ある選手ことを気にかけていました。

その選手とは、15年近くライバルとして争ってきたフィンランドのイルッカ選手。

平昌大会を最後に現役を退くイルッカ選手にとって、競技人生最後のレースでした。

ゴールしたイルッカ選手に駆け寄り、「長い間お疲れ様でした」と声をかけた時、もう一緒に滑れないということが現実として押し寄せ、悲しさが溢れてきました。

これまで刺激を受け、金メダルを獲りたいと思わせたくれたのが、ライバルの存在。

嬉しさと悲しさ。

その両方の感情に包まれた、金メダルでした。

 

新田選手は、パラリンピック2大会ぶりのメダル獲得の裏に「妻と息子からの手紙」という存在があったことも明かしました。

14日の奥様からの手紙には「この4年間の思いを全てぶつけてほしい」、そして17日には「今まで誰かのために頑張りたいって言ってきたけど、自分自身のために頑張ってほしい。メダルが獲れても獲れなくてもいいから全部出し切って、終わった後、笑顔で頑張ったよって言ってほしい」という内容が書かれていました。

レースの朝、奥様からの手紙を読んで4年間のことを思い返し、スタート2時間前にも関わらず涙して、「もう、やるしかない!」と気持ちを切り替えられたことが、金メダルに繋がったと話しました。

 

メダルセレモニーで金メダルを胸にかけた時は「最高」の気分だったといいます。

センターポールに日の丸が揚がっていくその瞬間は、何ものにも代え難い特別な時間でした。

 

今後は、パラリンピック経験者として、スポーツの魅力や意義について人々に伝えていくこともどんどんやっていきたいと話す新田選手。

最後に、上をめざして進もうとする方に伝えたい“Going Up”な一言を伺いました。

『不可能とは可能性だ』

29歳の時にバンクーバーで2つの金メダルを獲り、37歳になった時、おそらく誰しもが金メダルなんて獲れないだろうと思ったと思う。それを信じるか信じないかは、自分自身。

自分を信じて、どんどんそれを広げていきたいと思ったら、いろんな人が協力してくれて、不可能だったものが少しずつ可能なものへと広がっていく。みんなもこう信じて、いろんな可能性を広げてもらいたい。そんな思いが込められています。

 

次回のゲストは、車いすバスケットボールの藤本怜央選手です。どうぞお楽しみに!

2018年5月17日
平昌2018冬季パラリンピック 金メダリスト・新田佳浩選手 (1)

今回のゲストは、3月に韓国で開催された平昌2018冬季パラリンピック金メダリスト・新田佳浩(にった・よしひろ)選手です。

新田選手は、クロスカントリースキー 男子1.5kmスプリントクラシカルで銀メダル、そして、男子10kmクラシカルで金メダルに輝きました!!

 

金メダルと銀メダルを首にかけた鈴木亮平さんの感想は「大きい!重い!」

「日々の努力の重みがありますね…」と、しみじみとメダルを眺めていました。

 

平昌大会から2か月。

「メダルを獲ったことはすごいことではあるんですけど、それよりも、今までどれだけ多くの人に支えられてやれたかっていうことを感じて試合に臨み、それが結果的にメダルに繋がったっていうのが非常に嬉しかったですし、今回の大会においては、結果というよりも、自分が今までやってきたことを出し切るということにフォーカスを置いてやったことが非常によかったと思っています」

と、今の心境を語りました。

 

1980年6月8日生まれ。

3歳の頃、おじい様が運転する農機具に左腕を巻き込まれ肘から先を切断した新田選手。

子供の頃のあだ名は “泣き虫よっちゃん”

小学1年生の時、「できない」というのが言えなかった新田少年は、できないことがある度に泣いて、毎日のように泣きながら家に帰ってきました。

家に帰ると「なんで佳浩は泣いているんだ」ということになり「僕は今日こういうことができなくて…」と話すと、じゃあどうやったらできるようになるか家族でアイデアを出し合いました。

例えば、ドッジボールで、ボールを取れたと思っても(左手が短いので)ポロっとボールが落ちて、アウトになってしまったのが悔しかった・・・と話すと、じゃあ、ドッジボールの練習をしよう!と、夜遅くまで家族がつきあってくれて、ボールが取れるようになるまでとことん練習をしました。

できないことがあっても、こういうふうに工夫をすればできるよ、ということを家族から学び、それが今でも競技をするうえで活きていると、新田選手は話します。

「泣くこと自体が恥ずかしいことではなくて、そこから一歩踏み出す勇気が重要なんじゃないかなと思います」

“泣き虫よっちゃん”が踏み出した一歩は、やがて世界へとつながる、大きな一歩でした。

 

新田選手が生まれ育ったのは、岡山県の西粟倉村(にしあわくらそん)。

人口1500人程の小さな村には、スキー場がありました。

4歳でスキーを始め、9歳の時にクロスカントリースキーを始めました。

中学生になると、岡山県の代表として全国大会に出場しました。

その頃、1998年の長野パラリンピックに向けて選手発掘を進めていた、荒井秀樹(あらい・ひでき)日本代表監督に声をかけられます。

そうして、「パラリンピックを目指そう」と心に決め、本格的にパラクロスカントリースキー競技に取り組み、17歳で長野パラリンピック出場を果たしました。

 

長野大会を終えた新田選手は、父親からあることを知らされます。

「佳浩、おじいちゃんは、実は(新田選手が3歳で)怪我をした時、自分の左手を切って、孫の佳浩のために左手をつけてほしいって頼んだんだよ」

ふだん何も言わない祖父が、そういう思いを持って15年近く見守ってくれていたことを知り、何か、スポーツでもなんでもいいから形で返したいという思いが沸きました。

「パラリンピックで、おじいちゃんに金メダルをかけてあげたい!」

それが、パラリンピックを目指す、大きなモチベーションとなりました。

 

2002年のソルトレーク大会では、クロスカントリースキー・5kmクラシカルで銅メダルを獲得、そして、2003年の世界選手権ドイツ大会では10kmクラシカルで優勝し、日本人初の障がい者クロスカントリースキー世界チャンピオンに輝きました。

そして、2010年のバンクーバーパラリンピックで、その時はやってきました。

クロスカントリースキー・男子10kmクラシカルで金メダル、そして、1kmスプリント金メダル!

長野大会から12年。ついに、パラリンピックで悲願の金メダルを手にしました。

 

帰国後、新田選手は真っ先におじいちゃんのもとへ向かいました。

かわいい孫に金メダルをかけてもらって喜ぶ祖父。

「2014年のソチのパラリンピックで、もう1回、金メダルをかけてもらうために長生きするから」

(自分の頑張る姿が、おじいちゃんの生きる糧になった!)

他の何よりも嬉しかったその言葉は、新田選手にとって、忘れられない一言になりました。

 

しかし、その2年後。

「もう(金メダルは)見れないかもしれない」という言葉とともに、大好きなおじいちゃんはこの世を去りました。

パラリンピックへの挑戦、頑張ろうと思ったきっかけをくれた祖父を亡くし、どこにモチベーションをおいてやっていけばいいのか自分を見失い、一時は引退を考えたといいます。

そんな新田選手を再び奮い立たせたのは、家族の存在でした。

 

2014年のソチ大会。

20kmロングクラシカルで惜しくもメダルを逃し、4位という結果に終わりました。

ただ、帰国した新田選手の胸には、世界で一つだけの特別な「金メダル」が輝いていました。

長男・大翔君の手作り金メダルです。

 

その時、大翔くんは3歳3か月。自分が左手を切断したのも3歳3か月。

30年以上前、自分が息子と同じ歳の時、父親にそんなことをやってあげたいと思ったことはありませんでした。

自分が滑っている姿を見て長男は何かを感じ、メダルが獲れなくてかわいそうだから何か作ってあげたい、頑張ったねって伝えたいと思ってくれた。

自分が競技に取り組むことで、小さい子供の心を動かすことができたことが、喜びとなりました。

 

「僕のもうひとつの支え、といったらおかしいですけど、クロスカントリーって決して楽な競技ではないんですけど、子供の成長している姿を見たりすると、自分がこのクロスカントリーという競技において、そういう気持ちで毎日練習に向かっているかなっていうのを、気づかせてくれる存在が、家族だというふうに思ってます」

 

平昌2018冬季パラリンピックで、今度は息子に“本物”の金メダルをかけてあげることができた新田選手。

次回は、その平昌大会での戦いについて伺います。どうぞお楽しみに。

2018年5月8日
車いすバスケットボール 植木隆人選手・山口健二選手 (2)

車いすバスケットボールの植木隆人(うえき・たかと)選手と山口健二(やまぐち・けんじ)選手をお迎えしてお送りした第2回目。

 

今回は、5月19日(土)と20日(日)の2日間、東京都調布市の武蔵野の森総合スポーツプラザで開催される『天皇杯 第46回 日本車いすバスケットボール選手権大会』について伺いました。

車いすバスケットボール・クラブチーム日本一を決める国内最高峰のこの大会。

チームとしての一年の集大成となる大会とあって結果が求められ、選手にとっては特別な大会だといいます。

 

前回大会までは、全国10のブロックで予選を勝ち抜いた16チームが本大会に出場しましたが、今年の本大会への出場枠は8。

昨年の優勝・準優勝チーム、そして東日本・西日本のそれぞれ上位3チームに出場権が与えられます。

 

植木選手と山口選手が所属する「千葉ホークス」は、関東地区予選会(1次予選・2月に開催)を突破し、4月7日と8日に行われた東日本第2次予選会で3位となり、見事、本大会出場を決めました!

その時の心境について山口選手は「とにかくほっとした。まさか(日本選手権に)出られない…という考えが頭によぎりそうだった。一年間、みんなで頑張ってきたので、絶対負けられないという気持ちで挑んだ」と振り返りました。

 

今年の千葉ホークスは「速い!とにかく走る!」と語る山口選手。

昨年までのここ5年くらいは、頭を使って緻密に考える戦略的なバスケを展開していたといいますが、今年はとにかく走る、攻守の切り替えが早いトランジションバスケで、ランニングシュートにいけるようなシチュエーションを増やそうというのが狙いです。

植木選手はこれについて「もとに戻った感じ」と話し、チームが新しくなって、これまでのスタイルを一度取っ払い、“速く決めて、速く守る”をコンセプトに掲げて、一年間チームを作ってきたと自信をのぞかせました。

 

山口選手も植木選手も試合にほぼフル出場するチームの主力ですが、注目選手として、川原凛(かわはら・りん)選手を挙げました(三菱電機のCMでもおなじみの選手ですね!)

川原選手は持ち点(*)1.5と障害の重い選手ではありますが、ポテンシャルが高く、ディフェンス力がものすごく高いのが魅力で、ディフェンスだけではなく、アウトサイドからも積極的に打ったりと、機動力がある選手だと植木先輩も信頼を寄せます。

 

*持ち点:車いすバスケットボールでは障害の度合いにより、1.0から4.5まで(0.5刻み)8つのクラスに分かれており、選手それぞれに「持ち点」として与えられます。(数字が小さい程、障害が重いことを表します)試合では、コート上の5人の持ち点の合計が14.0点以下でなければいけないという特有のルールがあります。

 

日本選手権(天皇杯)での千葉ホークスの目標はずばり『優勝』

チームで副キャプテンを務める山口選手は、ふだんから試合をイメージして練習しているので、“いつも通り” いかに平常心で試合に臨めるかがポイントだと話しました。

 

 

最後に、上をめざして進もうとする方に伝えたい“Going Up”な一言を伺いました。

植木選手『今日頑張れる人は、明日も頑張れる』

いつも心がけている言葉。“継続”することが大事で、例えば休養も“継続”のために大切なこと。休養をとる時にも「勝つために寝る」というふうに意識することで、よりよいパフォーマンスを可能にすると、この言葉にこめられた思いを話しました。

 

 

山口選手『遠回りが一番の近道』

あんまり器用な方ではなくて要領もそんなによくないけど、努力と忍耐と根性は誰にも負けない自信がある。合理的に物事を考えたり進めるのは大事だけど、ただ合理性を求めるのではなく、タフさの中に合理さがあるのが一番強いと思っている。遠回りすることで見えてくることもいっぱいあるので、無駄に思えることをするのも、それが結果的に財産になったり、自分の力になることがこれまでたくさんあったので、大事な言葉だと思っていると語りました。

 

植木選手・山口選手所属の「千葉ホークス」を含む、全国8のクラブチームが、日本一を目指して、熱い戦いを繰り広げる『天皇杯 第46回 日本車いすバスケットボール選手権大会』は、5月19日(土)と20日(日)に東京都調布市の武蔵野の森総合スポーツプラザで開催されます。
ぜひ、会場に足を運んで選手たちを応援しましょう!(入場無料です!)

 

次回のゲストは、平昌2018パラリンピック・クロスカントリースキー金メダリストの新田佳浩選手です。どうぞお楽しみに!