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車いすテニスの船水梓緒里(ふなみず・しおり)選手を迎えてお送りした後編。
今回は、船水選手がこれまでに出場した大会を振り返りました。
中学2年生の時に車いすテニスを始め、今や世界の舞台に活躍の場を広げている船水選手ですが、国内で初めて出場した大会では「テニスのルールはわかってたんですけど、カウントを忘れちゃうくらい緊張していた」といいます。
ジュニアの大会で、自分より若い選手も多い中、まわりの選手たちは自分よりもテニス歴が長くて重圧はありましたが、年下の選手に負けたくない一心で戦い、優勝を勝ち取りました。
華々しいデビューを飾り、その後も、ジュニア大会で優勝を重ねていきました。
その成長は順風満帆に見えますが、「昨年から今年にかけて、壁にぶつかっている」と船水選手は話します。
ジュニアを卒業し、シニアデビューして、国内ランキング8位や7位の選手までは倒すことができるようになったといいますが、そこから一歩先に進もうというところで、大きな壁が立ちはだかっています。
ライバルは、20代の先輩選手たち。
自身が強くなったことで準決勝や決勝で当たることが多くなり、その選手たちを相手に、試合ではフルセットにまで持っていけるようになってきたものの、勝てない試合がずっと続いています。
ライバルをなかなか倒すことができず、悔しい気持ちで壁と向き合っています。
その壁を乗り越えるため、今は2つのことを意識していると話します。
対戦相手の研究がまだまだ足りないことに着目し、今年から、自分の試合をすべて録画して、相手の弱点などをデータとしてみるようにしているそうです。
それに加えて、得意なサーブの他にもう一つ、自分の武器を増やすことに取り組んでいます。
国内だけではなく、国際大会にも出場している船水選手は、これまでで一番印象に残っている大会として、今年1月にフランスで開催された『世界ジュニアマスターズ』を挙げました。
世界のジュニアランキング上位4位(女子)の選手のみが出場できるこの大会。
試合は、総当たり戦のラウンドロビンで勝ち残った2選手が、決勝戦で当たる方式で行われました。
ラウンドロビンで、アルゼンチンの Antonella PRALONG選手と対戦した船水選手は、4-6、2-6でストレート敗けを喫します。
残りの2試合では勝利を挙げ、ラウンドロビン2位で決勝に進むことになりました。
決勝の相手は、再び、Antonella PRALONG選手。
決戦を前に、船水選手はコーチとひたすら、Antonella選手の弱点をつくための練習をして臨みました。
最初のセットを 6-4で取り、続く第2セットは 1-6 で取られ、試合はファイナルセットに。
5-2でリードした船水選手がマッチポイントを握ります。
すると、観客から船水選手に大きな応援の拍手・・・
それが船水選手の緊張を誘うことになります。
何とか早く試合を終わらせようと、気持ちは焦るばかりです。
「ミスしないように」と慎重になり、ボールが甘くなってしまいます。
その間に、Antonella選手は落ち着きを取り戻し、そこから一気に流れが変わり、(船水選手は)マッチポイントを2本握りながらもついには逆転され、そのセットを5-7で落としました。
勝利を掴みかけ、それをものにできなかった悔しさだけが残った大会となりました。
高校卒業後は、大学に進学してテニスと両立させたいという船水選手。
「自分の武器をしっかりとどの試合でも出せる選手になって、どんな相手でも、どんなコートでも、どんなボールでも、自分のウェポンは必ず決められて、それが “勝ち” に導ける選手になりたいです」
目標を語るその目は、やる気に満ち溢れていました。
最後に、上をめざして進もうとする方に伝えたい “Going Upな一言” を伺いました。
『意志あるところに道は開ける』
リンカーンの言葉です。「強い意志があれば、自分のやりたい事や目標への道が開けて、必ずゴールが見えてくる」という強い思いが込められています。
船水選手のリクエスト曲: いつかこの涙が / Little Glee Monster
落ち込んだ時、うまくいかなかった試合の翌日にもう1回試合がある時、「絶対、次は頑張ろう!」と奮い立たせてくれる曲
次回のゲストは、アーチェリーの上山友裕選手です。どうぞお楽しみに!
今回のゲストは、車いすテニス界・期待の星、船水梓緒里(ふなみず・しおり)選手です。
2000年生まれの17歳、高校3年生!
高校では、体育祭でみんなとダンスをしたり、友達と「フェイスパックの交換」を楽しんだり…高校生最後の一年を満喫しているそうです。
そんな“普通の”女子高生ですが、ラケットを握れば、車いすテニス世界ジュニアマスターズで、シングルス2位の実力を持つ “スーパー女子高生”に変身します。
今回は、船水選手が車いすテニスを始めたきっかけから伺いました。
船水選手は中学1年生の頃、事故により車いす生活になりました。
もともとスポーツが大好きだという船水選手ですが、車いす生活になってからは、外出するのも嫌になり、友達と一緒にいても、自分だけハンディキャップを背負っているようで楽しめず、後ろめたい気持ちになったこともあったといいます。
そんな時、お母さんに誘われて、車いすテニスの全国大会『全日本マスターズ』を観に行くことになりました。
会場に着くと、ちょうど決勝戦が行われていました。
そこで船水選手が目にしたのは、日本が誇る世界的テニスプレイヤー・国枝慎吾選手の姿。
「取れないだろうなって思うボールも、車いすを一生懸命漕いで叫びながら取るっていうのがすごくかっこよかったし、車いすに乗ってても健常者と同じくらいのスピードで球を打って、追いかけていって…というところに迫力を感じました」
国枝選手のプレーに心を動かされたと同時に、会場にいたみんなが楽しそうにスポーツをやっているのを見て、「自分もやってみたい!もう1回スポーツをやりたい!」と思い、中学2年生の時に車いすテニスを始めました。
車いすテニスを始めた頃は「リハビリみたいな感じでやってた」と言いますが、初めて出場したジュニア大会で、いきなりの優勝。
その勢いはとどまることを知らず、国内のジュニア大会で次々と優勝を重ねていきました。
そして、転機が訪れます。
船水選手の活躍が、全日本の監督の目に留まり、『車いすテニス世界国別選手権(ワールドチームカップ)』のジュニア日本代表に選出されたのです。
「その時、自分のレベルはあまりにも低くて相手にもならないくらいだったんですけど、その大会に出た時に、同じ世代や、もっと小さい子が、真剣に国を背負って一生懸命戦うところを見て、自分ももっと強くなりたいという思いから、真剣にテニスをやろうと思いました」
そこから、練習への取り組み方も変わっていきます。
車いすテニスをやっている先輩選手に自分から積極的に声をかけて「一緒に練習させて頂けませんか」と練習をお願いしたり、お父さんに練習相手になってもらい近所のコートで練習したり、練習量を増やしていきました。
また、毎日の体幹トレーニングに加え、中学の時にやっていたソフトボールの経験から「肩のしなりは(テニスの)サーブに通じる部分がある」と、”遠投”を欠かさずやる等、独自の方法で技を磨いていきました。
船水選手の得意なプレーは、左利き特有の、曲がる ” スライスサーブ ”
ボールが右利きの選手と逆回転になるため、相手を惑わし、外に追い出すことができるといいます。
東京2020パラリンピック出場を目指す船水選手。
着実にステップアップしている成長の裏には、あるものの存在がありました。
『東京2020パラリンピックまでの 5ヶ年計画書』
前に国枝慎吾選手のコーチを務めていた丸山コーチから、目標を持った方が何事も頑張れるというアドバイスを受け、2016年から2000年まで、1年ずつ細かく課題と目標を設定しました。
目標とする国際ランキングと国内ランキング。そのための課題ーチェアワーク、フィットネス、戦術、ウェポン・・・
特に大事にしているのは “ウェポン(武器)”
「ウェポンだけは確実にどの試合でも出せるようにしたいと思っています。大会ごとにボールもコートのサーフェスも相手も違うので、自分の展開も試合の中で変わっていったりするけど、自分の武器であるウェポンだけは絶対に変えないで一貫して出せば、負けないというのもわかっていますし、それだけ出せば、マインドコントロールも保てるというのもあるので、ウェポンだけは常に意識してやっています」
今年、2018年のウェポンの欄には『サーブ破壊力 国内No.1』
得意のスライスサーブに、さらに磨きをかけていきます。
次回もゲストは、船水梓緒里選手です。どうぞお楽しみに!
車いすバスケットボール男子日本代表キャプテン、豊島英(とよしま・あきら)選手を迎えてお送りした第2回目。
今回は、豊島選手が車いすバスケに出合い歩んできた道のりを辿りました。
養護学校(現・特別支援学校)に通っていた豊島選手が車いすバスケットボールに出合ったのは、中学2年生の時。
「車いすバスケの講習会があるから、行ってみたら」と体育の先生に言われ、参加したことがきっかけとなりました。
選手たちのスピード感やシュートを決めるシーンは、当時(打ったボールが)リングにも届かなかった豊島選手の目に、とてもかっこよく映りました。
その後、地元・福島県の車いすバスケットボールチーム『 TEAM EARTH 』で競技を始め、ある程度経ってくると、「日本代表になりたい」という思いが芽生えます。
(ここで今後やっていっても、日本代表への道はほど遠い・・・)
そう感じた豊島選手は、チームを離れることを決意。
そうして2009年、20歳の時に、さらなる刺激と技の習得を目指し、当時から日本代表選手を擁した強豪『宮城MAX』に移籍しました。
宮城MAXは、選手ひとりひとりのレベルが高く、新しく入った豊島選手に対しても、求められることは高かったといいます。
これまでは、シュートを落としても厳しく言ってくる人はなく許されていたことも、宮城MAXでは「ビシバシ言われた」と話します。
今の豊島選手からは想像できませんが、「シュートがすごく下手くそ」で怒られることも多かったそうですが、その悔しさをバネに「求められてるからにはやらなきゃいけない」という思いで練習に励みました。
その努力が実り、宮城MAXに移籍した年に、日本代表候補合宿に初招集され、翌年には初代表入りを果たし、世界選手権に出場しました。
パラリンピックにはロンドンとリオの2大会に連続出場した豊島選手は、リオ大会を終えた、2016年秋、ドイツに渡ります。
そこには、東京2020パラリンピックに向けて、自分のため、チームのために、もっと自分を成長させたいという思いがありました。
ドイツリーグでは『 Köln 99ers 』というチームに所属。
豊島選手はドイツでの競技生活をこう振り返りました。
「私が行ってたチーム自体が、強いチームじゃなかったので、正直、負け試合ばかりで苦しかったんですけど、そのチームでもキャプテンをやっていて、プレータイムも一番長くて、そういった環境の中、周りをコントロールしなければいけないっていうのは、日本でやるよりも気を使うし、我が強い選手がいっぱいいるので、それをまとめるというのは勉強になりました」
2016年1月からは宮城MAXのキャプテン、そして、リオ2016パラリンピック後から、車いすバスケットボール男子日本代表キャプテンを務めています。
「そういうのは断り続けてきた」という豊島選手ですが、キャプテンを任され、自分だけではなく全体を見ていく中で、チームの見方も変わっていったと話します。
男子日本代表キャプテンとして、チームメイトに伝えているのは「それぞれの選手が責任を持ってやってもらわないと勝てない」ということ。
これは、キャプテンやエース任せになっていた、ロンドンとリオのパラリンピックを経験して学んだことでした。
「自分がキャプテンだけど、ただ、そういう肩書きがあるだけで特別なことはない。ひとりひとりがキャプテンという意識を持ってもらいたい」
経験や年齢など関係なく、若い選手でも、チームの中で何でも言い合える雰囲気を日本代表の中で作っていきました。
東京2020パラリンピックではメダルを狙って戦う!と闘志に燃える豊島選手。
「個人としては3回目のパラリンピックになるので、地元開催というのもあるし、集大成の大会にしたい」と、2020年にかける思いを語りました。
最後に、上をめざして進もうとする方に伝えたい “Going Upな一言” を伺いました。
『あきらめない』
「人生の中にはいろんな選択肢がある。自分がやりたいこと、こうしたいと思ったことをやってここまで来た。諦めなければいけない時もあったけど、そっちを取らずに、自分の目標や、自分が決めたことをやり続けて、この日本代表にも入れたし、この世界で楽しくバスケットボールと出合えたのも、こういうことがあってスタートしたのかなと思う。あきらめないでやることが、必ず自分のためになり、成功に繋がると思う」
この言葉には、そんな思いが込められています。
今までで一番、“あきらめなくてよかった” と思うこと。
それは、2011年の東日本大震災のあと、バスケットボールを続けるか諦めるか悩んだ時に、あきらめない選択をしたことでした。
当時、練習のため福島から仙台に通っていて、その移動だったり、仕事の関係だったり、困難が幾重にも降りかかりましたが、『日本代表になりたい』という思いから整理をつけて、仕事も辞めて、仙台に移る決断をして、今の豊島選手がいます。
8月に開催される世界選手権に向けて、その先にある、東京2020大会でのメダル獲得に向けて、豊島キャプテンの挑戦は続きます。
次回のゲストは、車いすテニスの船水梓緒里選手です。どうぞお楽しみに!