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2019年11月29日
車いすバスケットボール女子日本代表キャプテン・藤井郁美選手 (1)

今回のゲストは、車いすバスケットボール女子日本代表キャプテンの藤井郁美(ふじい・いくみ)選手です。

 

藤井選手は小学3年生でミニバスを始め、中学でもバスケットボールに励んでいましたが、中学3年生の時に右足にできた骨肉腫を取り除く手術を受け、膝が人工関節となりました。

それでも、バスケットボールが大好きで、高校に進学してからはバスケットボール部のマネージャーとして活動しました。

その頃、バスケ部の顧問の先生から、車いすバスケットボールという競技があるよという話を聞き見に行きました。

ただ、当時は、高校のバスケ部が強かったこともあり部活が忙しく、高校生活の方が楽しかったため、自分がやるものだとは全然思わず、見に行っただけで終わったそうです。

その後、本格的に車いすバスケットボールを始めたのは20歳の頃。

19歳の時に潰瘍性大腸炎を患い大腸を摘出するという困難を乗り越え、そこから、車いすバスケットボールプレーヤーとしてのキャリアを築いていきました。

 

2006年に日本代表として世界選手権に出場した藤井選手は、その翌年、2007年に地元・横浜から仙台に拠点を移すことを決意します。

環境を変え、当時、日本代表HCを務めていた岩佐義明監督が率いる、日本トップの車いすバスケットボール・クラブチーム「宮城MAX」でより高みを目指すことを決めたのです。

すでに女子日本代表として活躍していた藤井選手は、ある程度できる自信を持って、練習に臨みました。

ところが、男子日本代表の選手も数多く所属する宮城MAXの練習は想像以上にハードで、1回の練習全部をこなすことができなかったといいます。

フィジカル面だけではなく、パスが取れなかったり、すべてにおいてついていくことができなかったそうです。

途中で一回抜けては練習を見て、復活したらまた入るといった感じで、少しずつその差を埋めていきました。

 

車いすバスケットボールの日本選手権(現在の天皇杯)は、男子クラブチームの日本一決定戦で、以前は男子選手のみが出場できる大会でした。

藤井選手は長らく宮城MAXのチームメイトとして一緒に練習しながら、大会には出られないという状況にいました。

2017年から女子選手もメンバー登録ができるようになり、ついに本領発揮と言わんばかりにこれまで鍛え上げてきた実力を見せつけます。

そうして、今年の大会まで3年連続で大会オールスター5に選ばれました。

ドイツをはじめとするヨーロッパのリーグでは何十年も前から女子選手も同じように試合に出場していたため、日本選手権に女子選手が出場できるというニュースを聞いた時は「(仙台に来て)10年かかった…」と思ったそうです。

「やっとこの時が来たなという感じで嬉しかったですし、後に続く若い女子選手にも何か一つ残せたと思い嬉しかったですね」

 

2017年、世界選手権の予選を控えるなか、藤井選手に乳がんが見つかります。

バスケットボールを続けられるよう筋肉を傷つけないように手術を行なったそうですが、驚くべきことに、手術した数日後にはコートに戻り、予選会では誰よりもアグレッシブにコートを駆け抜けゴールを狙う姿がありました。

当時の心境をこう振り返ります。

「自分がキャプテンだったというのももちろんありますが、そこに至るまでにみんなでいろんなことを乗り越えて来たので、やっぱりその仲間たちと戦いたいというのが一番強かったと思います」

そして、そんな辛い時、藤井選手を支えていたのは家族の存在でした。

「家族がいなかったら、今の自分はないと思いますし、ここまで頑張れてないと思います。ありきたりな言葉かもしれないですけど、原動力となっているのが家族ですし、なくてはならない宝物のような存在です」

 

車いすバスケットボールプレーヤーとして、「常に心技体がバランスとれている選手でありたい」という藤井選手。

11月29日にタイで開幕する「2019アジアオセアニアチャンピオンシップス」では、キャプテンとしてチームを勝利に導きます。

大会の優勝を目指す、車いすバスケットボール日本代表選手たちに日本から熱いエールを送りましょう!

 

藤井郁美選手のリクエスト曲:Another Starting Line / Hi-STANDARD

2019年11月22日
車いすバスケットボール・網本麻里選手 (2)

今回も、車いすバスケットボールの網本麻里(あみもと・まり)選手をゲストにお迎えしてお送りしました。

 

今週は、車いすバスケットボール女子日本代表について伺いました。

女子日本代表は、網本選手が出場した2008年北京パラリンピックで4位、2000年のシドニー大会では銅メダルを獲得しました。

その後、2012年のロンドン大会、2016年のリオ大会では出場を逃していますが、その要因の一つが中国の台頭でした。

2008年の北京大会、日本は初戦で中国と対戦し勝利します。

しかし、それから2年後、2010年頃から、最初は一桁差で負け始め、みるみるうちにレベルを上げ強豪になっていった中国に勝てない時代が続きます。

 

“世界との距離”について、網本選手は「遠くもなく近くもない」といいます。

国際大会に出場すると、いい試合はするけれど勝てない…という試合が多く、数年前に比べると日本のレベルはすごく上がっているものの、同時に世界各国のレベルも上がっているため、その差を埋めるためには自分たちがさらに上がっていかなければいけないと話します。

 

今年2月に行われた「2019国際親善 女子車いすバスケットボール大阪大会」(通称:大阪カップ)。

昨年の世界選手権で優勝したオランダや準優勝のイギリスを追い込むようなシーンも数多く見られ、「自分たちがやってきたバスケットがはっきり出せた」という手応えを感じる大会となりました。

そして、8月29日~9月1日に東京で開催されたオーストラリアとの国際強化試合では、3試合を行い2勝1敗。

逆転に次ぐ逆転の接戦となった最終戦で、勝ち切ることができ「自信」になったといいます。

しかもそれが、東京2020パラリンピック本番と同じ会場で行われた試合とあって、その意味もとても大きいと言えます。

 

女子日本代表の東京2020大会での目標は「銅メダル」。

“メダル”でも”金メダル”でもなく「銅メダル」にした理由を伺いました。

「自分たちの現実を見て、この目標にしました。金メダルだと地に足つかない感じで高すぎる目標ですし、これまで世界で戦ってきて『金メダルを目指します』というのは簡単なことではないと思いました。でも、メダルは獲りたい。そう考えた時に、2大会、パラリンピックに出ていなくて、東京は3大会ぶりの出場。それに、前回(昨年)の世界選手権にも出ていないことを考えると、自分たちが目指せる中での限界というのが、銅メダルなのではないかという結論に至りました」

 

その銅メダル獲得に向けて重要な大会が、11月29日からタイで開催される「2019アジアオセアニアチャンピオンシップス」です。

オーストラリア、そして最大のライバルである中国との対戦が控えています。

網本選手は、「この大会でアジアオセアニアのチャンピオンになって、東京2020パラリンピックを迎えるということが一番の目標」だと意気込みを語ります。

昨年の世界選手権では4位となった中国を敗ることで、パラリンピックでの銅メダル獲得も見えてきます。

この大事な大会に臨む車いすバスケットボール女子日本代表に、大きなエールを送りましょう!

 

最後に、上をめざして進もうとする方に伝えたい“Going Upな一言”を伺いました。

『越えられない壁はない!!』

自分の人生は自分でしか進めない。楽しくすることも辛く悲しくすることも、自分次第。日々、過ごしていく中では、辛いこと、大変なこと、しんどいこと、嫌と思うような泣きたいこともあるけど、それを越えられるのは自分だけ。越えた先には明るいことが待っている!そんな思いが込められています。

 

網本麻里選手のリクエスト曲:宿命 / Official 髭男dism

「ラジオ好き」だという網本選手。最近よく聴くのがこの曲。自分がやっていることと、一生懸命やっている人たちがリンクして、この曲を聴くと泣きそうになるそうです。

 

次回は、車いすバスケットボール女子日本代表キャプテンの藤井郁美選手をお迎えしてお送りします。
どうぞ、お楽しみに!

2019年11月15日
車いすバスケットボール・網本麻里選手 (1)

今回のゲストは、車いすバスケットボール女子日本代表の網本麻里(あみもと・まり)選手です。

 

8月29日~9月1日に東京で行われた、車いすバスケットボール女子日本代表の国際強化試合を会場で観戦した鈴木亮平さん。「プレーがかっこいい!」と魅了されたのが網本選手でした。

 

生まれつき右足首の骨に障がいがあった網本選手。

幼い頃から運動が大好きで、2歳で器械体操を始め、小学3年生の時に友達に誘われミニバスを始めました。

5、6年生になる頃にはバスケットボールがとても楽しくなり、週末になると朝から夜までずっと体育館にいたほどだったそうです。

学校から帰ると友達の家でバスケットボールのビデオを見たり、バスケットボールを題材にした漫画「スラムダンク」を読んだり、バスケットボール漬けの毎日を送っていました。

ところが、成長するにつれ体が大きくなると足首にかかる負担が次第に大きくなり、痛みも続いたため、医者からはバスケットボールをやめなさいと言われます。

それでも、バスケットボールが好きでそのまま続けていたそうですが、中学2年の時にもう一回手術をしても足が思うように動かず、みんなについていくことができなくなり、無理かなと感じたといいます。

 

当時、網本選手のお母さんもまた、娘がバスケットボールをしている姿をずっと見ていたいと思っていました。

そして、網本選手が小学5、6年生の頃、大阪の長居にある障害者スポーツセンターに一緒に行き、車いすバスケットボールの存在を知ります。

そこから、遊びのような感覚で続けていると、高校生の時、車いすバスケットボールでオーストラリアに遠征に行く機会が訪れました。

そこにはオーストラリアだけではなく、アメリカからも同年代の選手たちが来ていました。

日本チームに帯同していた通訳の方から、「麻里ちゃん、日本代表になれば、こういう各国の代表選手たちと対戦できるよ」と言われ、心が動きました。

そうして、現在も所属している女子のクラブチーム「カクテル」に入り、高校から本格的に車いすバスケットボールを始めました。

 

ここから、”網本伝説”が始まります。

高校1年で日本代表に選出されると、2008年にはチーム最年少の19歳で北京パラリンピックに出場。日本は惜しくもメダルを逃しましたが4位という堂々たる成績をおさめました。

自身初のパラリンピックという大舞台で、網本選手はなんと7試合で133得点を挙げ「大会得点王」に輝きました。

2005年と2009年にはU23世界選手権に出場。

そして、22歳で出場した2011年のU25女子世界選手権では1試合で51得点を挙げて「世界記録」を樹立しました。この記録は今も破られていません。

 

若い頃から世界の舞台で戦ってきた網本選手ですが、なかでもパラリンピックに出場したことは大きな経験になりました。

「器械体操をやっていた時、オリンピック選手を間近で見たことがあって、そういう人たちと同じ舞台に立ってみたい、オリンピックに出たいという夢をずっと持っていました。その思いはバスケに転向してからも変わらず、車いすバスケを始める時にも、パラリンピックに出たいという夢を持っていました。北京パラリンピックは、その夢が叶った瞬間でした。
開会式にも競技会場にもたくさんの人が見に来て応援してくれて、期待やみんなの力をもらえました。他の大会とは雰囲気が全然違って独特な緊張感があり、本当に特別な空間でした。みんなが憧れる夢の舞台だということが実感できた大会でした」

 

その後、日本でクラブチーム「カクテル」に所属しながら、海外にも挑戦した網本選手。

オーストラリア、ドイツ、スペインのリーグでバスケットボールを磨いてきました。

そして今、自身2度目となるパラリンピック出場を目指し、さらにはその大舞台でのメダル獲得を目指し、日々、トレーニングに励んでいます。

 

網本麻里選手のリクエスト曲: Gift / Mr.children

北京パラリンピックに出場した時のことを思い出す一曲だということです。